牛丼1杯の原価って、いくらか知っていますか?~『吉野家で経済入門』
「牛丼1杯の原価って、いくら?」企業秘密をそんなに明かして大丈夫ですか!?(2016)
2014年、熟成肉登場
一言で言えば「寝かせる」ということですね。・・・時間をおくことでタンパク質がアミノ酸のようなうまみ成分に変化するからです。
今まで、僕らは冷凍牛肉を使って、2~3日で回転するようにしていました。これを2週間、冷凍庫から冷蔵庫に移して寝かせれば、アミノ酸の値が増し、しかもペプチドという成分が増えて酸味が抑えられ、よりおいしくなることはwかっていました。ただ問題は、量なのです。・・・例えば1日に20トンの牛肉を使うとすると、2週間で280トンになります。・・・複数の営業冷蔵庫の取引先にご協力いただけて、2週間保管することが可能になりました。(39ページ)
熟成肉に変えるきっかけ
牛丼並盛の定価を280円から300円に引き上げたことですね。ちょうど消費税率が5%から8%に引き上げられるタイミングで、それだけなら290円にすればお釣りがくるぐらいですが、・・・300円台に乗せたい思惑があった。だから、合せてクオリティアップに取り組んだということです。・・・逆に言うと、商品開発の現場はもともと牛肉のクオリティアップ、つまり熟成肉のアイデアを温めてはいたんです。(41ページ)
値上げを浸透させるには?
(牛丼の価格を20円値上げした)ダメージがどれくらいあるか心配でした。・・・クオリティを上げるにはどういう手だてがあるか、・・・牛肉の「熟成」もその一つ。あるいはたれの素材の質を上げたり。・・・価格を上げる際に、メッセージとして伝えたんです。・・・実際、値上げの影響はほとんどなかったですね。客数のダメージはゼロではないでしょうけれど、ほとんど見えなかった。(136ページ)
価格を上げることはたいへん
「価格を下げることはある意味で簡単なことだ。低価格に対応するような仕組みの変化を実現すればよい。しかし、価格を上げることはたいへんだ。顧客に納得してもらわなくてはいけない」(137ページ)
吉野屋で経済入門
本書は2016年の発行、吉野屋が2014年に牛丼を値上げした経緯が当時の安部社長より克明に解説される。競合の値下げにより380円から280円へ値下げ、そして300円(現在は380円)へと値上げを行った。わずか2年前のことである。値上げをするには顧客が納得できる理由が無くてはならない。当たり前だが理由はより良い商品を提供すること、でしかない。
安倍氏は創業者松田氏の言葉「今は過去」という表現で吉野屋の価値観を説明する。松田氏は同業他者にもどんどん企業秘密を教えていたという。仮に他社が真似ても、吉野屋は先に行っていけばいいと言っていたそうだ。本書もそれに倣った様に、吉野屋の内幕が書かれている。
競合を見るのではなく、顧客を見る。競合を真似るのではなく、自分たちの価値観をつくり出し、それを顧客に提供する。企業という一つの組織が一つの価値観を追求したとき、そこに大きな価値が生まれる。
蛇足
牛丼の原価率は40%(ここまで書くか?)
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なぜ人は芸術を崇めるのか?~『芸術崇拝の思想―政教分離とヨーロッパの新しい神』松宮秀治氏(2008)
芸術崇拝がヨーロッパでいかにして生まれ、どのように広まっていったかを、近代国民国家の政治原理である政教分離とからめて論じていく。(2008)
宗教と芸術の交代
政教分離とは18世紀後半から19世紀にかけて、国家と宗教の対立が激化し、歴史上かってなかった新しい政治と宗教の関係がうみだされていくなかで両者の和解が不可能となったとき、教会の側が「キリスト者の自由」を守るためにみずから国家への関与から身を引いたことである。・・・政教分離とは国家の政治的な力による国家機構からの宗教の排除のことではなく、むしろ宗教の方が国家に取り込まれることからみずからの「信教の自由」を守ろうとした結果だったということである。そしてキリスト教が国家権力から離反した空隙を埋めるために、近代国家によって生み出されたのが「市民宗教」(社会的宗教あるおいは国家宗教)であり、新たな「神」というより「神々」として祀られたのが「芸術」「歴史」「文化」「科学」である。そしてそれらの神々を祀る新しい国家神殿がミュージアムなのである。(55ページ)
18世紀末から19世紀初頭にかけてヨーロッパでは宗教と芸術の位置は完全に逆転する。宗教は個々人の内面に慰安、今日のわたしたちの言葉でいえば「癒し」の領域にとりこまれ、代わって「芸術」が市民社会の公共の典礼となる。(28ページ)
芸術が自律化するということ
芸術が自律化すると、芸術の制作と評価規準が「創造性」「独創性」「個性」というものになる。ヨーロッパの伝統において「創造する」(cration)という言葉は神のみの属性を表す語であって、世界の聖なる創造ということを明確な背景として使われてきた。(64ページ)
・・・自律的な価値を与えられるというということは、・・・「芸術家」とは理念的にはみずから神となって、自己の作品を通じて、歴史と社会がいまだ発見しえなかった新しい価値を創出する「創造者」となることである。
芸術至上主義
西欧中世のキリスト教社会で「わたしは神なんて信じてもいませんし、また存在するとも思っていません」と公然といえなかっただけでなく、家族間でもまた恋人や許嫁のあいだでさえもいえなかったはずだ。「芸術」否定論が公然と表明されないのは、それが近代の「神」だからである。(222ページ)
はっきり言ってしまえば、芸術などわからなくとも人生にとってなんの損失でもなく、また損失だと思わない人の存在していることに気付こうともしないし、また気付かない態度である。ここには芸術がわからない者は「俗物」であるという抜き差しならぬ西欧の「芸術」の思想の伝統に犯されている・・・。(235ページ)
芸術崇拝の思想
松宮氏は西欧社会のつくり出した「芸術」はせいぜい200年の歴史しかなく、普遍性のあるもの、ではないと言う。西欧社会で大きな位置を占めてきたキリスト教が後退、「芸術」がキリスト教の地位にとって代わったという。芸術が神になったのである。芸術作品に何十億円という価格が付くのも芸術が神、だからであろう。
西欧社会のルールで生きる我々もまた芸術至上主義に浸されている。この芸術至上主義を外してみたとき、芸術にどういう価値を見いだすのであろうか?
蛇足
読書の目的は人生を変えること、である~『探検家の日々本本』角幡 唯介氏(2015)
山の中で死にそうな目に遭うくらいなら、本を読んでたほうがよっぽどマシである。ノンフィクション作家であり探検家による、読書エッセイ。(2015)
読書は人生の予定調和をぶち壊す
人生をつつがなく平凡に暮らしたいのなら、本など読まないほうがいい。しかし、本を呼んだほうが人生は格段に面白くなる。読書は読み手に取り返しのつかない衝撃を与えることがあり、その衝撃が生き方という船の舳先をわずかにずらし、人生に想定もしていなかった新しい展開と方向性をもたらすのだ。しかもその衝撃は意外と潜伏旗艦が長く、何年間も自覚症状がなかったのに、別の本を読んだ時にそれが引き金となってマラリアみたいにひょっこり顔を出し、読み手の人生の予定調和をぶち壊す毒薬のような破壊力があり、それこそが私が考える読書という営為の最大の美点なのだ。マラリアに感染しない人生より、マラリアに完成にている人生のほうが面白いに決まっているだろう。(9ページ)
キャンベル・モイヤーズの「神話の力」
彼(キャンベル)は多くの神話を比較し読み解くことにより、〈いま生きているという経験〉を求めるのが神話の裏に隠された主題であることを見つけ出した。古代インドの思想から映画「スター・ウォーズ」に至るまで、神話は人類が共通で編み出してきた、生き方の希求のしかたを説明する物語なのであ。・・・考えてみると、登山とか冒険とかといわれるような行為は、要するに自然の中で本当の生を体感するための活動に過ぎない。(115ページ)
エスキモーのシャーマンの言葉~神話の力より
『唯一の正しい知恵は人類から遠く離れたところ、はるか遠くの大いなる孤独のなかに住んでおり、人は苦しみを通じてのみそこに到達することができる。貧困と苦しみだけが、他者には隠されているすべてのものを開いて、人の心に見せてくれるのだ』・・・そして自分ももう一度、「人類から遠く離れたところ、はるか遠くの大いなる孤独のなか」に行きたいと願うようになった。(117ページ)
探検家の日々本本
探検とは「自分たちの世界の枠組みや常識の外側に飛び出してしまうこと」(127ページ)である、と説明する。探検する人間はそこで〈いま生きているという経験〉をすることになる。それでは世界の枠組みや常識の外とはどこであろうか?地理的な未開の知が一番わかり易いがもはやこの地球上に多くは残されていない。本書では地理的な未開の地以外にも様々な冒険が紹介されている。
それでは今、角幡氏は何の冒険を挑んでいるか?4カ月間冬の局地を歩くことで、「太陽すら昇らない、光すら失われた、すべてが完全な死の静けさにつつまれた、まさに人間の制御の外にある自然のなかで、ひたすらどこかに向けて歩き続け」ようとしている。〈いま生きているという実感〉を獲得するために、極地を目指す。
何のために本を読むのか?何のために冒険をするのか?本書は人生の探検のヒントが詰まっている。
蛇足
本を読む目的、人生を変えるため
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500年前の宗教改革は宗教の自由競争を生んでいた~『ロテスタンティズム - 宗教改革から現代政治まで 』深井智郎氏(2017)
プロテスタンティズム - 宗教改革から現代政治まで (中公新書)
1517年に神聖ローマ帝国での修道士マルティン・ルターによる討論の呼びかけは、聖書の解釈を最重要視する思想潮流につながりプロテスタンティズムと呼ばれることになった。(2017)
・・・イングランドの宗教改革ではじまった国家や政治的支配者に依存しない自由な教会形成の試みは、国営教会が存在しているために、どうしても完全に自由な競争にはならないという壁にぶつかった。そこで(ピューリタンと呼ばれた)彼らはこの自由の獲得のために、また新しい本当のキリスト教的ヨーロッパを再建するために新大陸に向かったのであった。・・・・それゆねにアメリカではリベラリズムとしてのプロテスタンティズムが主流派になった。・・・そこで最終的に構築されたプロテスタントの特徴とは、国家や政治的支配者に依存しない教会の設立という新プロテスタンティズムの伝統にあった。(168ページ)
アメリカ合衆国憲法修正条項第1条(1791年)
合衆国議会は、国教を制定する法律もしくは自由な宗教活動を禁止する法律・・・を制定してはならない。
宗教も市場化し自由競争
国営教会がなければ、そこではまさに教会は一つの自発的結社として、一つの民間団体として、宗教市場で自由な競争が可能になる。(172ページ)
アメリカの宗教の市場は、この民営化と自由化の中で、伝道と呼ばれる競争を続けている。・・・(アメリカの)町のメインストリートにはいくつもの教会があって、人々はそれを自ら選んで一つの教会に行くのである。この市場の中で、自分にもっとよき宗教的指針を与え、魂のよりどころとなり、宗教心を満たし訓練してくれる礼拝と牧者を求めて、教会を選び、移動する。(178ページ)
新プロテスタンティズムとアメリカ社会
(カソリックでは)天国行きの唯一のエージェントであった教会の干し得にすがるようになっていた。・・・(その対抗勢力として生まれたプロテスタンティズムでは、特にそれは通俗化した場合、)この世で成功している者こそが天国に行ける者であり、それが、神が救いを予定したことの証明だという考え方である。・・・アメリカでは与えられた人生で成功した者こそが神の祝福を受けた者だといされたのだ。これがアメリカの自由な競争という市場の考えと結びついて、一代での成功物語こそがアメリカの美談になるし。それだけではない、この社会には国家教会や社会の正統などないのだから、市場で成功し、勝利した者こそが正義であり、真理であり、正統になる。これがアメリカ的なイデオロギーに宗教が与えた影響であろう。(182ページ)
ルターの宗教改革は1517年、500年前に始まった。本書によればルター自身はカソリックに対抗するプロテスタントを作ろうという意図最初からを持って始めたのではないが、世界を変える大きな潮流になったことは明らかである。そしてこの潮流は現在のアメリカを初めとする西欧世界に大きな影響を与えている。
アメリカは憲法で国教を定めない、と規定されている。それではアメリカ大統領は就任のときなぜ神に誓うのか?著者はこの神は“新プロテスタンティズムとしてのキリスト教に限りなく近いナショナリズム”であり、大統領はこれを司る大祭司であると説明する。
アメリカ経済の自由競争、民間優位、そして世俗的成功思考、これらアメリカの経済的価値観もまたプロテスタンティズムの影響を受けて確立したものであった。
今から500年前ルターの始めた宗教改革は宗教に自由競争を持ち込んで世界を大きく変えていた。
蛇足
アメリカでは宗教も自由競争
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正解のある"勉強"、正解のない"学び"の違い~『すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論』堀江貴文氏(2017)
すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 (光文社新書)
義務教育の「常識」を捨てろ、「好きなこと」にとことんハマれ!(2017)
没頭するとは「学び」のこと
没頭する対象なんて、その気になればいくらでも見つかる。あなただってきっと、すでに出合っている。でも自分で自分にブレーキをかけているのだ、「こんなの、できっこない」と。(86ページ)
自分で行き先を決め、アクセルを踏む生き方のためには、「学び」が不可欠だ。・・・僕が言う「学び」とは没頭のことだ。脇目をふらずに没頭し、がむしゃらに取り組める体験のすべてが「学び」だと僕は思っている。(87ページ)
教科書とは先人の没頭の副産物
知の巨人としてあまりに有名なレオナルド・ダ・ヴィンチ。万有引力の法則を発見したニュートン。現代物理学の父アインシュタイン。彼らのような人々がそれぞれ自分の抱いた疑問の検証に寝食忘れるほど没頭し、そこでの発見を後世に残したからこそ、学問の体系は成熟した。彼らは「お勉強」していたのではない。ただ目の前のことにのめりこんでいただけだ。・・・彼らは心の赴くままに学び続け、道なき道を突き進んでいった、見習うべきイノベーターの先輩たちなのである。・・・学びとは、知の地平線を拡大する、つまりイノベーションを起こしていく過程そのものなのだ。それは当然、「自分の進むべきルートを自分で創り出す」こととも重なる。今僕たちが目にするう教科書も計算ドリルも、すべて誰かの没頭の副産物にすぎない。(92ページ)
何に没頭するか?
自分が求めているものは何か、やりたいことは何か。今この瞬間、どんな生き方ができたら幸せなのかを真剣に考え抜くのである。それがあなたが何に(没頭する時間という)資本を投じるかを決める原動力となる。(168ページ)
我慢するな
僕をふくめ、一般的な学校教育を受けた人たちは皆、「いざという時」のために学校に通わされ、役に立つのか立たないのかわからない勉強をさせられてきた。その間はもちろん、やりたいことを我慢し、やりたくないことも受け入れるしかなかった。・・・我慢が習慣化しているからだ。学校教育が創り出すのは、こうした無自覚の週間に他ならない。(7ページ)
すべての教育は「洗脳」である~21世紀の脱・学校論
堀江氏は皆我慢をすることに慣れきっっているという。与えられた課題をこなすことに慣れ、自分が没頭できる課題を探する術を忘れてしまっている。自分が没頭する術を探すには我慢せずまずはやってみること、である。
そもそも教科書に載っている内容は誰かが未知のなかから切り開いた「学び」の成果、である。しかしそれを勉強として強制されるとき、面白みは失われ「学び」の要素はなくなる。学校の勉強は普通「学び」にはならないのである。
それではどうすれば勉強ではなく「学び」をすることができるのか?我々がすべきは、何をすれば一番楽しいか、真剣に検討すること、である。一番楽しいことをしているとき、それが「学び」の時、である。
蛇足
何をしても自由、から逃げない
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シャープ経営危機の本質~『イノベーションはなぜ途絶えたか: 科学立国日本の危機』山口栄一氏(2016)
イノベーションはなぜ途絶えたか: 科学立国日本の危機 (ちくま新書1222)
山口氏はイノベーション理論・物性物理学の研究者、 かつて「科学立国」として世界を牽引した日本の科学とハイテク産業の凋落が著しい。(2016)
イノベーション型企業シャープ
1912年に早川徳次によって創業された老舗ベンチャー企業シャープは、売上高2兆円規模の大企業になった現在においてもベンチャーのDNAをまじめに受け継いできた会社である。
生み出された部品やそれに基づく製品はどれも驚きに満ちたものばかりで、量産太陽電池(59年)、トランジスタ電卓(64年)、液晶電卓(73年)、大型カラー液晶(88年)のような世界初の先端技術製品のみならず、両開きの冷蔵庫ドア「どっちもドア」(89年)や、開くとキーボードがせりあがる極薄ノートパソコン「メビウス・ムラマサ」(98年)、さらに今や当たり前になったカメラ付携帯電話(2000年)などは、グッとくる感動すら覚えた。(32ページ)
シャープ危機の本質~山登りのワナ
シャープの危機は、一見「液晶事業への過大な投資」にあったとみることができる。しかしその底流には、液晶への過度な選択と集中によって次世代に向かうべき研究・開発ができなくなるという組織のジレンマが存在していた。その現象は、1990年代後半に発生した。
研究開発本部の科学者・技術者ら「未知派」は、たとえディスプレイ技術部門ですら「ちがう未来」に向かうべき製品のビジョンを描くことも、それに向けて自分が明らかにしなければならない要素技術の研究も許されなくなった。ブラックボックス化という会社の方針がそれにさらなるタガをはめた。・・・こうして(液晶の生産に邁進するという)山に登り始めたら、その頂点に向かって迷いなくまっしぐらに登っていき、未知の山の存在など見向きもしない空気が組織全体を支配するようになってしまった。(55ページ)
シャープに学ぶ教訓
第一に、(今あるものを改善して山を登る)「演繹」ばかりに固執して「山から下りられなくなる」のを防ぐために、常に 「帰納」をし「本質」に向かって下りる修業をすることだ。・・・第二に、未来に至る価値の創造は・・・常に「ちがう未来」を構想し、分野や業界の「知の越境」を果たして「回遊」することである。(219ページ)
イノベーションはなぜ途絶えたか~科学立国日本の危機
山口氏はシャープの経営幹部研修を通じシャープの技術系幹部と10年にも渡る接点があったという。2000年代中頃から「液晶事業はいずれ終焉を迎えるから次の未来製品を考えなければならない」と経営幹部自身が気付いていたという。それではなぜ新製品開発ができなかったのか?液晶事業という山をめざして、ヒト・モノ・カネという生産要素を集中させた結果、他のもっと高い山=新分野・新技術が見えなくなって、新製品開発ができなくなってしまったと分析する。
シャープの経営機器は液晶への過剰投資ではない。経営危機の本質は液晶しか投資するものが見えなくなってしまったことにあった。知らず知らずのうちに低い山、登りやすい山に選択と集中をしたとき、大きなリスクが生まれる。
蛇足
新生シャープR&Dのビジョン、”世界の分業の中で日本人の頭脳と能力を生かして世界に貢献すする”(49ページ)
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『モナリザ』の背景はなぜ荒涼とした風景なのか?~『ダ・ヴィンチ絵画の謎』斎藤 泰弘氏(2017)
斎藤氏はイタリア文学、特にダ・ヴィンチの手稿の翻訳・研究で知られる。『モナリザ』の 左右の背景はなぜつながっていないのか、そもそもなぜこんなに荒涼とした風景なのか……。(2017)
どう繋がっているか、分かる?
モナリザは上半身で背景の中央部分を遮って、見る者に向かって微笑みながら「わたしの背後で風景がどう繋がっているのか、分かる?」と問いかけている。実際、彼女の右側と左側に展開する風景がチグハグで、両者が彼女の背後でどのように繋がっているものか、これまで誰も納得できるような説明をしたことがなかった。(137ページ)
絵の背景に込めた意味
向かって右側では、アルプスのような山岳地帯を水源地とする川が、きわめて自然に蛇行しながら流れ下ってきている。それに対して左側では、山々や水に浸食されて倒壊し、水はその行く手を塞がれて、湖となって広がり、次いで近い将来、その堤防を食い破って湖を崩壊させ、その下流域に襲いかかって、地表にあるものすべてを洗い流すはずである(144ページ)
なぜこのテーマを選んだのか?
・・・この世の終末をめぐる問いは、あらゆる時代のあらゆる人間の心を捉えてやまない人類の永遠の問いである。しかし、とりわけルネサンスのヨーロッパ社会においては、この問いはより切実なものであった。彼らの世界観の根底をなしていたキリスト教思想は、この世の終末をーその時期こそ不確かながらも、その確実な到来をー予言していたからである。・・・世界の終末は、現代人を脅かす核戦争の恐怖と同様に、当時の人々を脅かし続けた脅迫観念だったのである。(180ページ)
ダ・ヴィンチの考えていたこと
彼の化石の生成過程についての地質学的考察は、この手稿においても続けられ、それらはすべてかつての海底が現在の山岳にまで隆起したことを証言していた。ところが、彼の静学的考察は、永久的な大地の隆起を否定して、最後には大地が再び水没することをはっきりと予言していたのである。(122ページ)
16世紀当時の模写(背景がはっきり分かる)
プラド美術館のモナリザの模写、最も初期の作品と判明 写真8枚 国際ニュース:AFPBB News
ダ・ヴィンチ絵画の謎
ダ・ヴィンチは20歳の時画家の工房の親方として独立した。彼は大学で学んだ学者ではなかった。イタリアのフィレンツェの山から出土する貝殻などの化石から大地の生成と消滅の理論に興味を持つ。ダ・ヴィンチは30歳頃当時の文化の中心地であったフィレンツェに移り、そこで宮廷お抱えの技術者として様々な活動に従事する。その間も常に大陸の生成の過程を研究し、ミラノ近郊の化石を収集分析し、自らの説を確立した。
ダ・ヴィンチは『モナリザ』だけでなく『受胎告知』、『聖アンナと聖母子と小羊』などの背景にも大地の生成と崩壊のモチーフを使っているという。
ダ・ヴィンチは絵画だけでなく、科学者・技術者として様々な活動をした。彼の活動は一つのテーマに貫かれていた。人類は大地が水没しては滅亡するとして、それまでの間どうやったら自分は人類の役に立てるのか?だからこそ絵画の主題はキリスト教であったとしてもその背景には自分の主張を描いていた。
ダ・ヴィンチから学ぶべきは、自らの頭で考え続けること、前例のない分野に挑戦すること、であろう。モナリザの背景はそのことを教えてくれる
蛇足
ダ・ヴィンチの主張はカトリック教会にとって受け入れられるものではなかった
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