毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

どうして我々は客観的に見る事がでいかないか?~『目の見えない人は世界をどう見ているのか』伊藤 亜紗 氏(2015)

 目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)

伊藤氏は美学と現代アートが専門、私たちが最も頼っている視覚という感覚を取り除いてみると、身体は、そして世界の捉え方はどうなるのか――? 目の見えない人の「見方」に迫りながら、「見る」ことそのものを問い直す。(2015)

 

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視覚と視点

 

 

視覚を使う限り、「視点」というものが存在するからです。視点、つまり「どこから空間を見るか」です。自分がいる場所と言ってもいい。・・・想像の中でその場所に立つこうした場合も含め、どこから空間や物をまなざしているか、その点が「視点」と呼ばれます。同じ空間でも、視点によって見え方が全く異なります。・・・けれども、私たちが体を持っているかぎり、一度に複数の視点を持つことはできません。このことを考えれば、目が見えるものしか見ていないことを、つまり空間をそれが実際にそうであるとおりに三次元には捉え得ないことは明らかです。それはあくまで「私の視点から見た空間」でしかありません。(70ページ)

 

見えない人には死角がない

 

 

見えない人には「死角」が無いのです。これに対して見える人は、見ようとするかぎり、必ず見えない場所が生まれてしまう。そして見えない死角になっている場所については「たぶんこうなっているんだろう」という想像によって補足するしかない。しかし、見えない人というのは、そもそも見ないわけですから、「見ようとすると見えない場所が生まれる」という逆説から自由なのです。(74ページ)

 

目の見えない人は世界をどう見ているか?

 

・見える人は月や富士山を平面的に見ている。見える人は文化を構成する視覚イメージに囚われているだという。一方見えない人は月をそのまま球形に、富士山は上が欠けた円錐、など三次元的に把握している。

全盲の子供が壺を作った時、その壺の内側に細工をしたケースがあったという。壺の表と裏には壺の表面としての違いが存在しなかったという。

太陽の塔には顔が幾つあるか?目が見える人は二つ、と答える。目が見えない人は模型を触わって得た情報をそのまま解釈して3つと答えるという。目が見える人は太陽の塔の裏側の「顔」を見落とすか、裏にあるのだから顔ではないと認識してしまう。

見えない人は客観的に見る

 

 

見えない人は、物事のあり方を「自分にとってどう見えるか」ではなく、「諸部分の関係が客観的にどうなっているか」によって把握しようとする。この客観性こそ、見えない人特有の三次元的な理解を可能にしているのでしょう。(74ページ)

 

我々は視覚情報と常識に囚われている

 

伊藤氏は目が見えない人との交流により、視覚に頼る事、視覚に頼らない事、その違いを明らかにする。目に見えない人が空間把握において視点を持たない事がより客観的な解釈を可能にしているという。

視覚情報を言葉に置き換え、それを見える人と見えない人で共有する、そこには我々が常識として切り捨ててる情報をすくい上げる事が可能になる。我々が見る時、常識というフィルターを通している事を知る必要がある。

蛇足

 

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