毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

重要なこと、全体から部分を見るという意識~『日本文化における時間と空間』加藤 周一(2007)

日本文化における時間と空間

加藤周一(1919-2008)は文芸評論家・作家、日本文化を貫く時間と空間に対する独特な感覚―著者はそれを「今=ここ」と捉える―に迫る。(2007)

 

日本文化の時間

 

 

始めなく終りない直線=歴史的時間、始めなく終りない円周上の循環=日常的時間、始めがあり終りがある人生の普遍的時間である、そしてその3つの時間のどれもが、「今」に生きることの強調へ向かうのである。(36ページ)

 

ユダヤキリスト教的時間

 

 

始めと終りがある時間、両端の閉じた有限の直線(線分)として表現されるような歴史的時間の表象は、ユダヤキリスト教的世界の特徴である。時間は直線上を初めから終りに向かい、強い方向性をもって、流れる。その方向は変わらず、逆戻りはできない。時間線上で起こるすべての出来事は1回限りである。(15ページ)

 

部分が全体に先行する

 

 

始めなく終りなき歴史的時間の全体を把握することは難しい。内外を峻別する境界にかこまれた空間のなかでは、人々が内外を併せての空間全体に係わることが少ない。かくして全体に対する関心の弱い文化は同時に、部分への強い関心を生み出すのである(11ページ)

 

日本文化の構造

 

 

日本文化の中では、原則として、過去―は特に不都合な過去は、「水に流すことができる。同時の未来を思い患う必要はない。「明日には明日の風が吹く。」・・・要するに未来を考えずに現在の利益をめざして動き、失敗すれば水に流すか、少なくとも長そうと努力する。(234ページ)

 

 

私の住む場所=「ここ」がまず存在し、その周辺に外側空間が広がる。・・・家族から国家まで、「ジェンダー」から世代まで、一人の人間は多くの異なる集団に属するが、・・・・「ここ」から世界の全体を見るのであって、世界秩序の全体からその一部分=日本=「ここ」を見るのではない。(236ページ)

 

我々の思考パターンを知り、限界を越える

 

我々は「始めなく終りない直線の時間」に住んでいる。今という部分に焦点を置けば、今に含まれる過去と未来=全体への関心が薄くなる。「“うち”と“そと”を分けた空間」に居ると、“そと”を“うち”との関係性でしか捕らえなくなる。「今=ここ」に生きる日本はこの限界を持っている。

我々はこれに気付いていたからこそ仏教や禅の発想を取り入れようと努力してきた。始めなく終りない時間から今を見つめ、世界全体から自分を見つめる。

 

「悟りの眼目は、あらゆる二分法の克服であり(自他、主観と客観、一と多、有と無または常住と寂滅、生死など)、時間的および空間的距離の克服は、その意識の一局面である。」(12ページ)

 

一念三千(人の一念には宇宙の全存在が備わっている)はこれを表している。

人は気付けば「今=ここ」という部分に埋没してしまう。

蛇足

 

全体から部分を見る

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