毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

生命という"概念"がいつ生まれたか知っていますか?~『はじめて読むフーコー』中山 元(2004)

はじめて読むフーコー (新書)

 中山氏はフーコーの研究家。ミシェル・フーコー(Michel Foucault)は一九二六年に生まれ、一九八四年に亡くなったフランスの思想家です。五七年ほどの生 涯をつうじてものを考えつづけたフーコーは、ぼくたちに大きな遺産を残してくれました。(2004)

 

エピスメーテー

 

フーコーはそれぞれの時代に特有の「知の枠組み」が存在していて、生物学を含めて、すべての学問は根本からその枠組みに規定されていると考えます。この知の枠組みを、フーコーエピステーメーと呼びました。・・・このエピステーメーという概念は、「真理が真理として登場する条件はなにか」を見極めようとする、きわめて野心的な概念です。(95ページ)

 

博物学

 

 

古典主義時代のエピステーメーで、生物に関する学は博物学と呼ばれていました。博物学とは、可視的なものに名前を与える作業です。この時代において特権的な地位を締めるのが「まなざし」でした。博物学の代表的な学者である18世紀のカール・フォン・リンネ(1707-78)は、植物のうちになる、目にも触覚にも訴えない一切の偶有的な要素を捨てるべくきだと語っていました。(101ページ)

 

生物学

 

 

さまざまな生物が分類され、展示されていたパリの自然博物館を、18世紀のある日、生物学者のジョルジュ・キュヴィエ(1769-1832)が訪れました。キュヴィエは生物を保管していたすべてのガラス容器を持ち去り、これを壊して中の動物を解剖したのです。そして生物学は、リンネがおこなったような分類の代りに解剖を、構造の代りに有機体を、可視的な特徴の代りに内的な依存関係を、タブロー(連続的かつ普遍的な表)の代りに進化の系列を採用するようになっていきます。(103ページ)

 

真理とは

 

 

それぞれの社会には、なにが真理であり、虚偽であるかを判断する基準を作り出し、真理そのものを生み出し、それを学問の分野で配置し、保持する特有のやりかたがあるわけです。科学の真理は客観的なものとして、場所を問わずに妥当するものとされていますが、その真理が生まれ、維持されるために、その社会に固有のシステムが、ぼくたちの意識しないところで機能しています。(110ページ)

 

フーコーが考えたこと

 

フーコーはそれぞれの社会はそれぞれの時代において「無意識的な社会構造」を持つと説明する。そして真理もまた無意識な社会構造のなかで生まれ、機能していると考える。

博物館を除けば、博物学という言葉は使われない。博物学は生物学になり、分子生物学になっていった。それでは生物学とはなにか?一言で言えば生命とは何かを問うことである。博物学では生物はあっても生命という概念はなかった。生物学になって生物の内面に還元的に分析したとき、生命という概念が生まれた。それまでは生命という概念は存在しなかったのである。以来我々は生命を追いかけ、分子レベルまで還元的に分析を行ってきた。

フーコーは真理とは技術をも含む無意識な社会構造の上に成立するものであり、真理もまた変わり得るものであること、そして生命という概念もいつかかわる可能性のあるものであることを教えてくれる。

蛇足

 

生命という概念が誕生してわずか200年。

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