川柳「釈迦牟尼は、たとえ話しが 巧なり」が言う事~仏教は近代科学と同じ非日常的思考法だった
キリスト教、仏教、イスラム教、儒教。各宗教の蘊奥から説き起こし、比較歴史的に、どのようにして、これらの蘊奥に達したかについて解明する。2000年刊
ユークリッド幾何学におけるモデル
幾何学が前提とする点や線は、あるのかないのか。
線は、まったく幅がなくて長さだけがあるということになっている。そんな線は実在するのか。どんなに細く鉛筆を削ったところで、ほんの少しの幅はあるに決まっている。長さだけあって少しの幅もない線などありえない。・・・線は、外界における物質としてはありえない。人の識のなかにあるものにすぎない。しかも、感覚とも関係しない。
線は実在するか?
線は、実在するものではなく、モデル、すなわち仮に考えておいたものにすぎない。それは有でもなく無でもない。それは有であると同時に無である。それは有無以外のものでもある。
空とは
空とは有無を超越し、相互依存と同義である。
モデル、仮説、すなわちアリストテレス論理学を用い、絶対の心理の存在を前提に考えられた論理に対し、ナーガルジュナの説いた、すべてを仮のものとする空の発想がまさにこれなのである。
近代の科学が現代にいたりようやくたどり着いたモデルは、すでに2000円近く前に仏教哲学が唱えていた論理であった。(277ページ)
ユークリッド幾何学における線(wiki)
1.二つの異なる点を与えれば、それを通る直線は一つに決まる。
2.一つの直線とその上にない一つの点が与えられたとき、与えられた点を通り与えられた直線に平行な直線を、ただ一つ引くことができる。
直線 - Wikipedia
すべては関係性である
線は幅を持たないので視覚で捉える事はできない。それは2つの点をあたえられた時に認識される。直線は2つの点の関係性によって存在される事になる。線は重さを持たない。よって物質ではなく関係性を示した情報という事である。線は物質的な価値としては存在しないが、関係性を示した情報としては存在するという事になる。存在するとも言えるし存在しないとも言える、仏教の「空」の論理の例えである。
仏教のたとえ話
小室氏は江戸時代の「釈迦牟尼は、たとえ話しが 巧なり」という川柳を引用し空を説明するのに例えが理解を助けるといい、その最初に幾何学における線を持ってきた。空を説明するのにたとえ話を使うという事は非日常的な思考法であるという事。
線は2つの点の関係性によって決まる。そして2つの点はまた別の点の関係性によって決まる。そして別の点は別の何かによって決まる・・・すべてはつながっていく
良く考えてみれば線自体が非日常の存在でもある。
本章の題は「仏教は近代科学の先駆けだった」。
蛇足
自然界に線は存在するか?
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