毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

仏教の教祖はブッダという実在なのか?~『ブッダは実在しない』島田裕巳氏(2015)

ブッダは実在しない (角川新書)

島田氏は宗教の研究家、釈迦誕生からその後の仏教の変遷をたどると、ブッダは実在の人物ではなく創り出された一つの観念だった。その観念から、人物としてのブッダが生み出されていったかを読み解いた日本初の画期的な「ブッダ伝」(2015)

 

紀元前3世紀に仏塔が盛んになる

(インドの)ガンガー平原中流域では、紀元前3世紀より前に、仏塔の建設が行われるようになり、それが礼拝や巡礼の対象になっていたことがうかがえる。その後、インド亜大陸の大半を支配下においたウマリヤ朝のアショーカ王の時代には、仏塔の信仰はガンガー平原を越えて広がっていく。(150ページ)

紀元2世紀に仏像の制作が始まる

ガンダーラやマトゥーラは、仏像が最初に制作された地域としてよく知られている。それはクシャーン朝のカニシカ王が支配していた2世紀初頭から中葉にかけての時代にあたる。・・・ガンダーラやマトゥーラで仏像の制作がはじまるまで、ブッダが無くなってから相当の年月がたっている。ブッダが活躍されたとされる時代が紀元前5世紀後半、ないしは紀元前世紀後半頃であるとすれば、ブッダが亡くなってから600年、あるいは700年も経っていたことになる。(154ページ)

仏教の成立

仏教は一つの定まった聖典を出発点とするものではなく、仏舎利を祀った仏塔の信仰からはじまった。ブッダの生涯も、その教えも当初の段階では明確ではなかったために、仏舎利として祀られたブッダはどういう存在なのか、その教えとは何なのかという探求が進められ、それが仏教の信仰世界に無限の広がりを与えていった。(228ページ)

仏教は変化し続ける

仏教は、一つの型であり、前提となる型に基づいて人間にとっての究極的な悟りとは何かを探求していく、もっと言えば、探求し続けていく営みである。…その場合の型とは、仏典の形式であったり、仏伝という文學の様式であったりする。そこには、仏教が究極の実在を前提としないということがかかわっている。究極の実在が前提とされるのなら、それを求め、そこに遡っていけばいいのだが、仏教では、遡っていっても、最後は何もないところに行き着いてしまう。なにしろブッダは実在しないからである。(242ページ)

ブッダは実在しない

 

島田氏は原始仏教を伝えるパーリ語仏典の『スッタニパータ』の記述は曖昧であるという。ストーリー性が薄く、一般的なメッセージに留まっている。2600年前に原始仏教が始まってから仏像ができるまで600~700年の年月がかかる。その間に数多くの仏典(仏教文學)が作られ、悟りを開いた人=ブッダというキャラクターが固まっていった。仏教は究極の実在=神に依存せず、ブッダというキャラクターをどう解釈するか、ということによって世界宗教として存在している。

日本の大乗仏教と原始仏教の間には大きな断絶がある。そしてその断絶は問題にならない。究極の存在を想定しないが故に原理主義、断絶を否定し原始仏教に立ち返ろうとする運動からは無縁であり、キリスト教イスラム教と大きく違う点でもある。

島田氏は「仏教とは究極的な悟りとは何かを探求し続けること」という。仏教は現代科学と相性が良いのだと思う。

蛇足

 ブッダとはキャラクターであり、観念である

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