ゴミ屑になることを恐れるな!~『美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか』会田誠氏(2015)
美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか (幻冬舎文庫)
会田氏は現代美術の画家、現代日本の社会通念を挑発する会田誠氏の、奇抜な発想の裏にあるアーティストの日常と思考とは? (単行は2012、文庫は2015)
現代美術とはゴミ屑
現代美術はしばしばゴミ屑にたとえられます。それは将来結果的に半分以上当たりますが、半分以下ですが外れが出ます・その外れーつまり歴史に残る作品を選べた人はどうなるか分かりますか?それをオークションで売って大儲けができる?まあそれもそうかもしれないけれど、それはちっちゃな話。答えは、それを選んだ人だけが、それを選んだ精神自体によって、「次」の時代に行けるんです。たぶん現代技術の本当に正しい機能は、そこにこそあるのです。
西洋絵画と私
あっち(ルノワール)は近代的自我がスクスクと伸びている最中の幸せな19世紀の西洋人、こっち(自分)はその後の歴史的なスッタモンダがあった末に空虚に陥った不幸な21世紀の東洋人、たとえ表面的に似たところがあったとしても、そこに至る道筋がぜんぜん違うんだ!(108ページ)
現代美術と私
(現代美術は)「禁欲一筋!」「サービス精神ゼロ!」「美術史を解さぬ愚民は置いてきぼり!」みたいな展示なわけです。美術は究極的にどこまで行けるのか探求した挙句、行くとこまで行って行き止まり、確かに潔いしカッコイイけどさあ・・・尊敬すべき諸先輩方が、我々可愛い後輩たちのために作っておいてくれた、ステキなまでに完璧な袋小路―なんてイヤミの一つも言いたくなろうってもんです。(110ページ)
日本画とは
私見によれば、日本画は徹底的に明治的なものです。それは否応なく選択させられた<欧化>の中にあって、いかに精神的植民地化を回避し、近代日本のアイデンティティを確立すべきかという、苦しい設問それ自体でした。(206ページ)
もっとラディカルであれ
(自分が個人的に見たい現代日本画は)「ラディカル=根源的」な意味における、古いもの。人類史を一人で敵に回すような、壮大な野心と悲壮な覚悟を伴う反時代精神みたいなものです。西洋、そして最近はますますアメリカ中心主義的になってゆく地球に敢然と疑義を申し立てる、前近代・非西洋の闇から蘇った、亡霊にしてニューヒーローたる21世紀の日本画。その実態を僕はなんとなく夢想するんだけど、具体的な形になりません。なったら自分でやっている。(216ページ)
現代技術の意義
会田氏の専門である現代美術に日本の“老化”を見る。それは“リスクを恐れず、「次」にかけることができる、強くて若々しい精神力”が決定的に欠けているという。
アーティストは美術史の延長線上で戦っている。油断をすると誰かの100年遅れになってしまう。21世紀の東洋人として、美術史の中で新たな境地を広げるにはどうすればいいのか?会田氏はそこに焦点を合わせている。
考えてみるとアーティストに限らずおよそ人が企てる営みはすべて同じである。ビジネスにおいて他者のビジネスモデルを参考にすることは問題ない。それに比べれば、アーティストの選択はよりラディカルである必要がある。だからこそ現代美術は人々に未来を選び取る精神を与えてくれる。
蛇足
ゴミ屑になることを恐れるな
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