毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

浅田氏は、なぜ主人公は米国人青年にしたのか?~『わが心のジェニファー』浅田 次郎氏(2015)

わが心のジェニファー

浅田次郎が描く、米国人青年の日本発見の旅!

日本びいきの恋人、ジェニファーから、結婚を承諾する条件として日本へのひとり旅を命じられたアメリカ人青年のラリー。東京、京都、大阪、九州、北海道…。神秘のニッポンを知る旅を始めた彼を待ち受ける驚きの出来事と、感涙の結末とは!(2015)

 

主人公ラリーは日本について、リムジンバスで空港からホテルに向かう。到着が渋滞で15分遅れて、バスのドライバーは15分遅延を詫びる風景に出くわす。

キリスト教徒の少ない日本では、いわゆる原罪主義に基づく運命論が通用しないのではないか。アダムの罪なんて、そもそも誰も背負っていないから、たとえ(渋滞という)自然現象であれどんな不可抗力であれ、不都合な結果が生じた際には、アダムのかわりに責任を負って、神の恩恵に与る人々に対して詫びる人間が必要なのではないか。つまり、僕らキリスト教徒は信仰によってのみ原罪から解放されようとするが、それは現実社会では一種の諦めなのであって、けっして諦念によって現実を帰結しない日本人は、悪い結果が出るたびに当事者の代表が責任を感じて詫び、社会はそのつどそれを結論として許すのである。(62ページ)

ラリーは京都に向かい、清水寺三十三間堂に行く。

カソリックにしろ、正教会にしろ、信仰にかかわる美術的表現はみな一様に過ぎて、オリジナリティーを欠いている。プロテスタントに至っては、その美術的表現すら排除してしまった。清水寺三十三間堂という、たった二つの寺院を見ただけで、僕は仏教美術の驚くべき多様性を知った。これが同じ国の仏教美術であるとは、とうてい信じられなかった。芸術の真価は確固たるオリジナリティーにあると、千年前の日本人はすでに気づいていたんだ。だから模倣を忌避し、多くの仏師や建築家たちが、いつの時代も、様式と思想の両面からオリジナリティーを究めっていった。(137ページ)

浅田氏は世界を巡る

 浅田氏は世界を旅してきた。主人公ラリーは浅田氏が西洋社会と対峙して考えたことを代わりに語らせる。アメリカで飛行機が遅れても遅延に対して謝罪の言葉はない。それは突き詰めると、キリスト教社会では原罪を背負った人間がやることの間違いは避けられない、という諦めにつながることになる。

三十三間堂は一千一体の仏像を納め、更にまったく様式の違う清水寺と同居している。我々にとっては当たり前の光景である。確かに日本人にとって、ヨーロッパの教会はどれを見ても同じ、という感想を持つ。浅田氏はそこに多様性と集中を見出す。

本書は、小説とは現実から架空のストーリーを紡ぎだすこと、ということを実感させる。浅田氏が欧米を旅行して感じたことを、米国人ラリーに日本を旅行させて語らせている。

日本の見慣れた風景を外国人の視線で見たらどう見えるか、考えてみたくなった。そして日本を、世界を旅行したくなった。

f:id:kocho-3:20151106085442p:plainタンチョウ 求愛ダンス - YouTube

蛇足

 鶴の舞を知っていますか?

(ストーリーのモチーフになっています)

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