地球資源を消費する正体は「死への恐怖だった」という視点~『昆虫にとってコンビニとは何か?』
高橋氏はカメムシの"採集人"、深夜のコンビニは、明かりに引きつけられた昆虫にとって繁殖の場でもある。人間が便利で心地よい生活のためにつくってきた装置は、環境をつくりかえ、多くの昆虫を絶滅させてきた。それは「いたしかたのないこと」とは言えないか?2006年刊
環境保護は「資源の維持確保」と「現状維持の本能」に由来するという。そして「現状維持の本能」はしばしば感情的なノスタルジーに結びつく。
死の恐怖
人間の本能は人間の固体に死の恐怖を植えつけ、人間という種が滅びないようにした。・・・問題なのは、死への恐怖から個体をすくう手だてについては、本能は何も考えていないということだ。・・・繁殖さえ終えてしまえば(死の恐怖により)あとはどう苦しもうと問題ではなかったはずだったからだ。(208ページ)
地球資源を消費させる正体
人間が持つ死への恐怖は、地球の資源をかなりの規模で消費させ、あるいは環境を悪化させ、昆虫の生息場所を奪い、破壊することになるだろう。・・・人間が死への恐怖に対してどれほど莫大なエネルギーを消費するかあらかじめわかっていたなら、人間のつくり出した神(もしそういうものがいるとすれば)も、もう少し何らかの配慮をしたかもしれない。(210ページ)
昆虫という視点から人間を見つめる
著者によれば人間と昆虫が共生関係にあるのはミツバチやカイコなど数少ないという。人間と昆虫は資源を奪い合う敵対の関係にある。昆虫の視点から人間をみれば「存在しない方が良い」という存在でしかない。
我々は繁殖を終えた後、長生きをする生物である。繁殖後に長生きする事は昆虫など他の生物の視点からみれば資源の「浪費」に過ぎなくなってしまう。
理性による本能の克服
寿命の伸びた現代人にとって、「理性という手段で、死への恐怖を克服しようとする努力」は切実な問題である。宗教、文学、芸術、スポーツ、など人間の様々な活動は、死の恐怖という本能を克服しようとする姿勢とも捉えられる。別の見方をすれば人間は個人として、そして種全体としても本能を克服する事に成功しつつあるとも言える。資源の「浪費」から価値のある「消費」にシフトさせたのである。
人間の種も平均寿命を超えている
個人としても長寿命を享受し、人間という種が誕生して20万年を経過してなお繁栄を続けている。「多細胞生物種の「種」の平均寿命は10万年」(213ページ)を考えれば人間は理性によって種の寿命を延長しているのである。
蛇足
長生きして何をするか、理性で考えてみる
こちらもどうぞ
人類70億人を分子生物学の知見から定義してみる~この気付きが日常を愉しくする。 - 毎日1冊、こちょ!の書評ブログ