どうして西洋絵画には食のモチーフが多いのか?~『食べる西洋美術史 「最後の晩餐」から読む』宮下規久郎氏(2007)
宮下氏は西洋美術史の研究家、中世にキリスト教によって食事に神聖な意味が与えられると、食事の情景が美術の中心を占めるにいたる。(2007)
最後の晩餐
キリストの伸ばした左手の先には丸いパンが見え、右手の先にはワインの入ったグラスがある。キリストはこの晩餐の席で、賛美の祈りを唱えてパンを割き、弟子たちに与えて、「取りなさい、これは私の体である」と宣言し、ワインの杯をとって感謝の祈りを唱えて弟子たち渡し、「皆この杯から飲みなさい。これは、多くの人たちのために流される私の血、契約の血である」と述べた。(18ページ)
聖餐式は、キリストの犠牲と復活を覚え、キリストを自分の体のうちに取り込み、罪の許しと体の復活にあずかるという、キリスト者としての救済を確認する行為である。教会に設置されている祭壇というものは、この聖餐のための食卓に他ならない。
キリスト教は特異な宗教
キリスト教はそもそも特殊な宗教であった。母体であったユダヤ教では、神は決して目に見えない存在であり、「いまだかつて神を見たものはいない」とヨハネ伝の冒頭にも書かれているのに、イエス・キリストという普通の人間の肉体を持った神が出現した点が異常である。キリストは神でありななら、生身の肉体を持ち、それゆえに、人間の罪の身代わりとなって血を流して犠牲となることができたのである。(247ページ)
キリストが肉体を持つが故に最後の晩餐が成立
キリストが受肉したことにより、現世の肉体と食物を肯定し、造形美術を肯定する道が拓かれたのである。食物や造形美術という、ややもすると肉の滅びや偶像につながる物質を、聖餐という儀礼と聖像という表象に昇華しえた、そこにキリスト教文明の特異があったのである。(249ページ)
スルバラン・ボディゴン(1633年)
豪華でも貴重でもない日常的な事物を凝視し、その存在を徹底して追求することで、神の造化の神秘性にまで至ったというべき作品である。・・・オレンジは結婚の象徴であり、レモンは水を浄化するもので、カップの水とともに花嫁の純潔を表し、薔薇は彼女の美しさを表すという。(164ページ)
美術と死
美術も食も、死というものに照らしてみたときにこそ、その真の力を妖しく放ちはじめるのではなかろうか。「最後の晩餐」は、その意味で、美術においても食事においても究極のテーマであるといえよう。(253ページ)
食べる西洋美術史
西洋美術史においては食事、食品の風景は大切なモチーフである。それはキリスト教の背景だけでなく、飢餓への恐怖と食への憧れによるものである。ウォホールがキャンベルの缶詰を描き、最後の晩餐をモチーフにしたことは西洋美術の伝統に沿ったものであった。
一方日本、中国では食事の風景は絵画のモチーフとしては稀であるという。しいて言えば花には死、あるいは無常が表現されている。
本質的には飢餓を克服した今日、死の対局としての食という位置づけも意味を薄れさせている。我々は今、生と死を何にリアリティを見出すのであろうか?
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