そうか、音楽を”真面目に”聴かなくてもいいんだ~『聴衆の誕生 - ポスト・モダン時代の音楽文化』渡辺裕氏(1989)
渡辺氏は文化資源学の研究家、クラシック音楽はいつから静かに真面目に聴くものになったのか?(単行は1989、文庫は2012)
18世紀の演奏会
18世紀の演奏会は、基本的に社交の場であった。そこには音楽を真面目に聴こうとする人々もいたが、貴族社会の人間関係を維持するための場という方が性格づけとしては適切であった。・・・音楽文化の担い手が貴族からブルジョアへと移行したことであった。平たく言ってしまうと、産業革命を通じて富を獲得し、市民革命を通じて権力を獲得したブルジョワ階級が演奏会を支える層として加わったために、聴衆層が飛躍的に拡大し、演奏会が商業ベースにのるようになったのである。(30ページ)
近代の演奏会
一心に名曲に聴き入るような演奏会のあり方は、19世紀に起こった社会構造の変動の置き土産である。このような演奏会のありかたは、もっぱら音楽の精神的側面を強調することによって「高級」な音楽を「低俗」な娯楽音楽から切り離そうとした当時の美学思想を支えとして、「倫理的」な観点から正当化された。(75ページ)
つまるところ、「近代」的な音楽聴取とは、可能な限り純粋にこのような(音楽の精神性の追求)要求を実現する行為でなければならなかった。(78ページ)
1920年代は複製の時代
一言でいうならば、「複製芸術」の擡頭は芸術の大衆化を加速度的に促進したのであるが、こうした状況が本格的に生じ始めたのが1920年代という時代なのである。芸術が美術館や演奏会場という非日常的な空間から解放されて日常性の領域へと浸透し始めることによって、人間によっての芸術体験の意味は確実に変ってゆくことになる。(87ページ)
神格化されたベートーベンルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン - Wikipedia
聴衆の誕生
本書によればベートーベンなど音楽の巨匠と呼ばれる作曲家の神格化が行われたのは19世紀中ばである。音楽は貴族の社交の場で提供されるバックグランドミュージックの性格を持つものから、コンサートホールで音楽の精神性を堪能するためへと変わった。
我々が学校で習う音楽はまさに近代音楽、それも西洋近代音楽のスタイルである。我々は音楽に知らず知らずのうちに精神性と機能性を求めてしまう。
更に1920年代以降複製音楽の普及はこの構造に大きなインパクトを与える。名曲の陳腐化と多くの楽曲が並列されるカタログ化、音楽に意味を求めない軽やかな聴衆の誕生、などである。学校で音楽に取り組む姿勢と現在の音楽の聴くスタイルは大きく違っている。同じ音楽を聴いても印象もまた大きく違うであろう。
本書は19世紀型聴衆も20世紀型聴衆もどちらもあり、ということに気づかせてくれる。私は本書で気づいたということは、ポストモダンの現代にあってなお私の価値観は近代に留まっている部分の方が多いということであろうか。「音響刺激と無邪気に戯れる」(260ページ)ことも一つの音楽である。
蛇足
クラシック音楽というジャンルが確立したのも19世紀
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