毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

西洋と中国の科学、1000年単位で俯瞰した時分かる事~資本の重要性

 〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)橋本氏は科学史の研究家。「今では覆された過去の科学理論が意外に筋の通った理論であること、そして現代にまでつながる科学理論の構成要素には、よく見ると不思議な考え方が含まれている」

中国の科学 

西洋の科学の発展と比較して、中国科学の特徴をもっともよく表しているのが天文学である。中国では、大きな天文台を設けて天文現象の観測を行い、正確な暦をつくりあげながら、その一方で宇宙の構造についてはきわめて初歩的な議論の段階にとどまっていた。西洋ではさかんに宇宙の構造についての議論がなされたが、中国ではそのような議論はまったく重視されなかった。 

中国における宇宙論

 南宋の思想家の朱熹11301200)の朱子学とよばれる彼の思想体系は、おもに政治や倫理をテーマにしたものであるが、晩年には自然や宇宙に関する考察を残している。彼の宇宙論は、アリストテレス宇宙論に似て、地球のまわりにいくつかの天球を考えるものであった。しかしアリストテレスと異なり、天を構成するのは「気」と呼ばれる物質であり、それが高速に回転し九つの層を形成していると朱熹は考えた。(58ページ)

 

 中国の暦法

 歴法は国家の重要な法典とみなされていた。皇帝が入れ替わったり革命が起こったりすれば、制度や法律の変革とともに暦法の改革が実行され、属国となった地域では新暦の施工が強要された。中国の歴史において、この様に政治改革と結びついた暦の改革は何十回にのぼる。(52ページ)

 

授時暦(じゅじれき)~元の時代、朱熹の弟子達によって編纂 Wiki

元の時代、1281年から実施され、明でも大統暦(だいとうれき)と名を変えられて明の末年(1644年)までの364年間に渡って使用された。授時暦編纂時には観察器具も改良され、大規模な天体観測が行われた。1太陽年をグレゴリオ暦と同じ365.2425日とし、1朔望月を29.530593日とした(ただし、授時暦の方がグレゴリオ暦より300年以上早く制定されている)。

 

正確な暦を持ちながら宇宙論とは結びつかなかった

(授時暦は)、近代以前の中国科学の最高の成果ともいえよう。だが、歴法の完成度に比べ、宇宙論の探求は取り残された。朱熹の主張にも関わらず、中国の官僚天文学者にとっては、宇宙論の探求はやはり副次的な作業と考えられた。朱熹宇宙論の気の回転という自然学的概念を、暦の計算式に結びつけるという試みはなされなかった。そして民間の天文学研究を厳禁した中国社会において、宇宙論の探求が自由になされることもなかった。(60ページ)

 中国と西洋の科学の比較中国科学史の研究家、ジョセフ・ニーダムによる

 数学、天文学、そして科学的説明の仕方において、中国は西洋とは異なる様式をもつ知識体系を形成し、それは「科学」という名に十分値すると彼(ニーダム)は論じた。(51ページ)

1600年頃を境に、ヨーロッパの科学が中国の科学の水準に追いつき追い越し、そしてその後は、指数関数的に急成長をしたのである。(62ページ)

三大発明と言われる、製紙・火薬・羅針盤が中国で発明され、西洋に技術移転された事に示されるように、中国は様々な分野で技術が高度に発達していた。(61ページ)

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ニーダムは資本の蓄積の重要性を指摘

 ヨーロッパでは(広く認められているように)技術の発達と商人階級が権力の座に上ったこととが、密接に結びついていたからです。これは、科学的発見のために誰が金銭を蓄えるか、という問題でしょう。それは皇帝でもなければ封建領主でもありません。彼らは変化を歓迎するよりむしろ恐れます。しかし商人たちはといえば、生産と貿易の新しい形態を発展させるために、調査研究にお金をかけるひとたちです。まさにそれがヨーロッパ史上の事実でした。http://muso.to/h-tyuugokunokagaku.htm

  蛇足

西洋は科学に資本を再投資し続けた、それが指数関数的成長の意味。