毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

ローマ帝国から現代まで、中心と周辺は常に交代する~『ローマはなぜ滅んだか』弓削 達氏(1989)

ローマはなぜ滅んだか (講談社現代新書)

弓削 氏は 古代ローマ史の研究家、は全世界から巨富を集め、繁栄の限りをつくしたローマ帝国。食卓をにぎわす珍鳥・珍魚、文学に、スポーツに進出する「自由な女」、文化となった愛欲――。「永遠」をうたわれた巨大文明の興亡は何だったのか?(1989)

 

 
ローマを中心とする地中海文明

 

地中海世界は、古代オリエント文明、ギリシャ文明、ラテン、ローマ文明などの高度先進文明から、いまだに金石併用的な技術水準にある種族までを含む、発展度のことなる諸民族によって構成される広大な地域-ローマ滅亡後、ローマは統一した世界が再び一つの政治的統合を与えられることはなかったという事実を以てして、それが文字通り空前絶後であることがわかろう-を包括したのであった。正にこの点で地中海世界は、グローバルな現代世界と多くの構造的類似性をもっているのである。(19ページ)

ローマとギリシャ

 

ローマが支配下においた諸民族の中には、ローマより進んだ分化を持っているものが少なくなかった。いうまでもなく、ギリシャ人がその代表的な例である。「征服されたギリシャは、野蛮なその征服者をとりこにした」とローマの詩人ホラーティウスが謳ったように、文化的にはローマの方が被支配者であった。・・・ローマが支配した諸民族の文化との深い交流関係とは、まずこのような文化受容であった。ローマの支配は、被征服民から、よきものはすべて取り上げることであったが、世界史の視野でこれを見直せば、先進文明の受容と伝達でもあった。(94ページ)

ローマとゲルマン

 

「中央」(ローマ)は「周辺」(ゲルマン)を利用し、周辺の人びとのさまざまな形での強制的連行をくり返したが、やがて「周辺」は自発的・積極的に「中央」に足を入れ始める。・・・もし彼ら(ゲルマン)に共通の思いがあったとすれば、それは一言にして言えば、文明の果実を味わいたい、危険で過酷な貧窮な生活から逃れたい、ということだけだったであろう。(211ページ)

ローマは許容度を無くしていた

地中海世界がいかに史上未曾有の繁栄を謳歌したとしても、やがてその「中心」(ローマ)は「周辺」となり、「地中海世界」の外側のかつての「周辺」(ゲルマン)に新たな時代の「中心」が形成されていくという世界史の発展方向を我々は既に見て来た。この歴史を知っている我々には、四世紀以後のローマ人たちが、ローマに入ってローマのために働いている上下のゲルマン人たちを殺戮したり、追い出したりすることなく(これらのゲルマン人なくしてローマはすでに立ち行かなかったのだ)、彼らと共に、ありのままのゲルマン的生活文化によって、ギリシャ・ローマ文明を変成させていく度量を大きく持てなかったことにたいして、深い遺憾の意をいだかざるをえないのである。(228ページ)

 

ローマはなぜ滅んだか?

 

ローマ帝国は紀元前から4世紀までの400年間繁栄をした。ローマの人口は120万人、そのうち10-30万人が経済的自立者=市民であり、残りは奴隷あるいは半奴隷の状態だった。国内においては奴隷があり、周辺には占領領地を持つ、2つの意味で周辺によって支えられていたのがローマであった。

ローマが滅んだのは、ゲルマン人の大移動、拡張できる領地の喪失、あるいは気候の寒冷化、などさまざまな要素がある。ローマがゲルマンに対し許容度を無くしたことが滅亡の直接の原因というより、中心が周辺になるとき、中心は周辺に対し許容度を無くすことだけは間違いない。

日本は今中心に近づこうとしているのか、周辺に移ろうとしているのであろうか?

蛇足

 

中心と周辺は常に交代する

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