毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

ローマ帝国の政治的システム論からわかる事~国家といえども他と共有する相対的な場を提供するだけ。

 

Wikiによるローマ帝国の説明 

イタリア半島の小さな都市から出発したローマ帝国はBC27年アウグストゥス初代ローマ皇帝誕生を経て、「地中海にまたがる領域国家」へと発展し、更に東西に地域が拡大した後AC476年の西ローマ帝国滅亡までの期間を表す言葉。

 新・ローマ帝国衰亡史 (岩波新書)

南川氏は西洋古代史の研究家、本書そでより「 地中海の帝国と語られることの多いローマ帝国は、実は大河と森の帝国だった? 」

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ローマ帝国を「政治的枠組み」で捉えると

国境線もはっきりせず、また主たる構成員の定義も曖昧な巨大国家が「幻想の共同体」にならなかった要因は、このように「ローマ人である」」自己認識を備えた軍隊、「ローマ人である」ために相応しい生き方の実践、そして都市を初めとする在地の有力者たちとの共犯関係にあった、と私は考える。(40ページ)

 

ローマ帝国における、国境、ローマ人、軍隊、そして自治都市

ローマ帝国の場合は「線」ではなく、ローマ軍駐屯地やその周辺に様々な人々が混ざって生活する「ゾーン」と見るべきである。軍隊駐屯地の外側200㎞くらいまでの地域では帝国属州内と同じように市場経済が及んでおり、貨幣もある程度流通していた。(31ページから再構成)

ローマ人は征服地に自治を認めながらも、軍事力は取り上げて自分たちが独占すると同時に、治安維持を自らの義務とした。ローマ帝国を国家として実質化していたのは、この軍隊である。(37ページ)

ラテン語を話し、ローマ人の衣装を身につけ、ローマの神々を崇拝し、イタリア風の生活様式を実践することといってよい。(38ページ)

ローマは帝国としては、広大な領土を統治するのにごくわずかな行政担当者しか持たなかった。300人程度というのが中央行政を担当した官僚の人数と考えられる。帝国あ官僚に代わる統治手段として、都市を使ったからである。帝国中にある都市の有力市民に統治業務のいわば丸投げをしていた。(40ページ)

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コンスタンティヌ大帝の出身は現在のドイツのトーリア、324年ローマ帝国の単独皇帝になるまでの本拠地、正に「河と森」の地域。

 

2世紀後半のローマ帝国の人口分布

イタリアの人口が760万人であるのに対して、ガリア・ゲルマニア地方はイタリアを凌ぐ900万人を数え、ドナウ地方も400万人に増えているのである。(27ページ)

ローマ帝国といった場合地中海の帝国というイメージを持つが、ドイツを含む「大河と森」の性格を併せ持っていた。軍事力は統一化されていたものの、それ以外は都市の自治に任されていた。ローマ帝国を俯瞰して見ると、空間的にも仕組上でも他の組織と共有していた仕組みであった。ある意味絶対的な権威に見えてしまう国家という枠組みも他相対的なものである。あらゆる組織は相対的なものである。

 

蛇足

会社という組織もまた他と場と共有する相対的な存在。