毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

20世紀とは目的を失い、手段に固執した時代~『20世紀とは何だったのか』佐伯啓思氏(2015)

20世紀とは何だったのか (PHP文庫)

 佐伯氏は社会経済学の研究家、西洋近代主義が「ニヒリズム」へと行き着き、それが今や世界を覆いつつある。(2015) 

ニヒリズム

19世紀ヨーロッパの近代主義が行き着いた(のは)ニヒリズムです。キリスト教の神なり古典的世界観から得られた倫理や共通の善といったものが、もはや自明ではなくなったとき、世俗的秩序を構想し、秩序を支える規範を生み出す確かな根拠を、人間は見失ってしまった。世界をまとめ、意味づける確かなものは存在しない、そのような感覚がニヒリズムです。(284ページ)

ニヒリズムの先に啓蒙主義

人間中心主義の啓蒙思想家たちは、こう考えたわけです。かつての神学的世界観はもう持たない。それに代わって人間を中心として物事を組み立てていけば、もっと自由な社会ができるし、人間はさらに自然を支配して富を作り出すことができる。その極限で世界全体が一つの均質な世界になり、つまりグローバルな世界になるだろう。そんな夢をまだ見ることができた。(313ページ)

近代のパラドックス

近代を彩る「自由」「平等」「民主主義」「合理主義」といった人間中心主義的理念の数々は、いったいわれわれに何をもたらしたのでしょう。(314ページ)

ヨーロッパ近代が、その理念の普遍化とグローバル化によって、かえって非ヨーロッパ世界からの逆襲を受け衰退していったように、いままた、地球上にあまねく広まった近代思想の諸理念とその産物が、近代の最前線を生きるわれわれ人間を生き難い状況へと追い詰めつつあるのです。(323ページ)

なぜ近代のパラドックスが生じるのか?

自由や民主主義とは、本来は、それ自体が目的ではありません。それはあくまで何かよき生活なり、価値あるとされるものを実現するための効果的な条件なのです。技術ももちろんそうですね。技術も、それ自体が目的ではなく、よき生活や幸福を実現するための条件です。ところが、今日ますます、自由や民主主義そのものが絶対化されて自己目的になり技術の追求そのものが自己目的になっています。(286ページ)

ニヒリズムとは、まずは、大きな目的の喪失だということです。世界に体系的な意味がなくなれば、生の目的という観念が力を失う。・・・そこで手段であったはずのものを自己目的化して、それを絶対的なものとみなして追求するようになるのです。(287ページ)

20世紀とは何だったのか

20世紀とは神学的世界観を離れ、人間中心主義=啓蒙思想によって世界を変えていこうという大きな流れの中にあった。最大のポイントはどのような世界に変えるか、という大きな目的が未だ見つかっていない点にある。目的が明確でないがために、自由、民主主義、合理主義、資本主義、国民国家、など手段だけが肥大化していった。そしてそれが2度の世界大戦を含む不幸な歴史を生んだ。

この趨勢は21世紀になっても何ら変わることは無い。我々は本質的には誰からも目的を与えられない世界に住んでいる。自由を守る、のが重要なのではなく、何の為の自由を守るか、が重要なのである。世界が目的を持ちえない様に、我々も簡単には目的を持ちえない。簡単には見つからない。

蛇足

20世紀は今も続いている

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