毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

ラーメン博物館に学ぶ、完璧なラーメンは存在しない~『自由すぎると社会の秩序は崩壊する?』

自由すぎると、社会の秩序は崩壊する? 自由主義者の反社会学講座

 西川氏は「新オーストリア学派」経済学の研究家。国家という常識を疑えば見えてくる、わかりやすく面白い「リバタリアニズム=自由至上主義」2014年1月刊

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本書の最終ページから

  

国家というもの、政府というものが、世間でいわれているほど優秀でも万能でもなく、問題を解決するどころか問題と混沌を生み出していることに気づいていただければ、それだけで十分であると考える。(142ページ) 

人間は不完全な存在である。

 

人間は不完全な存在であり、その人間が作った政府も不完全である。しかもその政府が絶対的な権力を持つとなれば、腐敗するのは必然的である。(42ページ) 

慣習があり、それを国家が法にした

 

 君主制という身分制度が発達した社会ならば、必然的に正義を決定するのは高位のものであり、公正な司法制度を発展させなければならない理由が無いからである。逆に身分的に一緒である商人同士、また自国の身分制度が適用しない外国との交渉が必要だった商人にとって、公正で両者が納得するような司法制度を構築する事は商売上非常に需要なことである。(138ページ)

 

 

それは、ありがた迷惑というものだ!

 

 自分の価値観にこだわるにしても、町外れの頑固なラーメン屋のごとく、不味くても頑固一徹に味を変えないような程度だったならば、来店する客だけに被害は限られる。だが、そのラーメン屋が客以外の町民全員に自分のラーメンを食べさせようとすれば、事態は一気に悲惨極まりないことになる。さらに、強制的に食べさせたラーメンを「美味い」と言わせ、言わないと処刑するならば、「この世の地獄」と称しても問題ないだろう。

自由すぎても社会は崩壊しない

 社会がラーメン博物館だったとしよう。そこに1種類のラーメンしか提供されていなかったら多くの人が来るか?様々なラーメンがあり、自分の好みで選択できるからラーメン博物館の意味がある。そしてラーメンを食べたくない人は来なければいいし、いつもラーメンを食べたい訳でもない。多くのラーメンがあっても、それを自由に選択していいという「慣習」が存在するかぎり、混乱は起きないという事。

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新横浜ラーメン博物館さん(Shinyokohama ramen museum) - 神奈川県 横浜市 - 観光名所、ラーメン専門店 | Facebook

国家という常識

 現代の物理学、数学、生物学、様々な学問の帰結の一つは「完全性の否定」である。人間は不完全な存在であるし、宇宙には完全な物は存在しないという事。ベルギーでは2010年から541日中央政府が存在しなかった、それでも市民生活は回ったという。我々は社会の慣習を自分で選択する事によって、国家に依存せずに暮らしていける事に気づく。

蛇足

 誰にとっても完璧なラーメンは存在しない。

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