毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

物質とは何か?物質もまた相対的な概念であると気付く~『知の構築とその呪縛』大森壮蔵(1985)

知の構築とその呪縛 (ちくま学芸文庫)

 

大森壮蔵(1921-1997)は哲学者。16世紀に始まった科学革命は、「心」に帰属するものが排除され、自然と人間の分離、主観と客観の対立が生じることになった。

 

 

 大森氏はガリレイの物質感を引用

 

 わたし(ガリレイ)がある質料とか物体を考えるとき、ただちにイメージとしてえがく必要にかられるのは・・・そのものが、しかじかの形をして境界をと形態を持っており、他のものとくらべて大きい小さいか、また、しかじかの場所に、しかじかの時間が存在し、運動しているか静止しているか、他の物体と接触しているかいないか、1個か多数個かということなのです。・・・しかしその物質が、白いか赤いか、苦いか甘いか、音を出すか出さぬか、芳香を発するか悪臭を放つかという、こういった条件を必ず含めてその物質を理解しなければならぬとは考えません。(129ページ)

近代科学の誤解

 

 原子集団にただ幾何学的、運動学的性質だけを帰属させて死物化し、一方、感覚的風景を主観的意識に押し込めたのはガリレイデカルトの路線であった。・・・それは近代を特徴ずけた科学的思考に誤って紛れこんだ、そして人々の誤りに乗じて母屋を乗っ取ったデカルト二元論の呪縛の結果なのである。(235ページ) 

そもそも物質とは何か?(Wiki)

 

いわゆる「もの」のことで、生命や精神(心)と対比される概念。

(哲学)感覚によってその存在が認められるもの。人間の意識に映じはするが、意識からは独立して存在すると考えられるもの。

(物理学)物体をかたちづくり、任意に変化させることのできない性質をもつ存在。空間の一部を占め、有限の質量をもつもの。

実は物質は「感覚的風景」と一体である

 

近代科学は物質が感覚的風景と区別され、死物化された概念として考えてきた。だから生命と物質という二元論を構成する。大森氏は実は物質と感覚的風景は同一のものであると説く。例えて、机という物質、そして机という物質の持つ感覚的風景、この二つは物質と、物質を定義する感覚、であり「重ね合わせ」を行い一体化させるべきものであると言う。

物質の範囲も変化

 

我々は物質の定義が変化してきた事を知っている。還元的に、金属、分子、原子・電子、素粒子・・・。ガリレオ以降、テクノロジーの進化により分解能が上昇、より還元的に微小な単位を認識する様になった。つまりは物質の範囲がより詳細に定義される様になった。ここで、金属というレイヤーと分子というレイヤーでは物質の範囲が狭まり、感覚的風景の範囲が広がった事に気づく。つまりは物質はテクノロジーで切り出せた「物」であり、テクノロジーが変われば「物」の定義も変わる。

物質と生命

 

大森氏は物質を死物化した事が現代科学の誤解であると言う。それは物質と生命という二元論になる。そうか、と気づく。所詮我々が物質と定義しているレベルでも、そこには将来のテクノロジーで見れば感覚的風景が混在している。つまりは物質と感覚的風景、生命は切り分ける事はできないのだと理解する。科学は自然哲学であり、物質も説明原理であり、概念である。そしてそれは現代物理学の物質とエネルギーは等価である、を使えば当然の事と理解できる。

蛇足

 物質も相対的概念にすぎない

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