1852年ペリーの黒船はどこから来たか?~19世紀は帆船から蒸気船への移行期だった
杉浦氏は商船大学の教授職を歴任。19世紀、絶頂期の大型帆船と産業社会の夜明けを告げる蒸気船が洋上の覇を競った。1999年刊
黒船ペリーはどこから来たか?
軍艦4隻が東から一緒に太平洋を渡って来ただろうと単純にそう思っている人もあるらしい。・・・アメリカ東海岸から、北大西洋、南大西洋、インド洋、南シナ海を経て、東からではなく西から来て日本の太平洋岸へ入り込んだのである。ペリーが“ミシシッピイ”に乗ってノーフォークを出発したのは1852年11月24日であり、黒船艦隊の4隻が浦賀沖に到着して投錨したのは翌53年7月8日であった。ペリーがアメリカを発って目的地の日本につくまでに実に7カ月半を要したという訳である。(295ページ)
どうして太平洋を横断しなかったか?
(太平洋横断には)アメリカ東海岸から大西洋を南下して南アメリカ南端のホーン岬沖を回り、南アメリカ大陸の西岸沿いに北上して北大西洋へ入ってから日本を目指すことになる。ましてまず香港へ行かなければならなかったとすれば決して近道にはならない。太平洋の広さはまだ石炭を補給せずに蒸気船が一挙に押し渡れる距離ではなかった。
1860年咸臨丸は太平洋を横断
パウハタンは、1860年2月13日に幕府の遣米使節一行を載せて横浜を出航した。その3日前、随行艦として浦賀からサンフランシスコへ向かったのが幕府の軍艦咸臨丸であった。・・・咸臨丸がアメリカへ往復した頃、北太平洋を横断する蒸気船の姿はなかった。
19世紀は帆船から蒸気船への移行期
ロバート・フルトンは、外輪式蒸気船「クラーモント号」を開発し、1807年8月17日にハドソン川で試運転に成功した。これが蒸気船の商業利用の始まりとされている。ワットなどによる蒸気機関の発明から38年後の事である。当時は外輪車、それがスクリューになり、木造から鉄製に取って変わられる。「蒸気船が帆走に頼ることなく、蒸気動力だけで推進できるようになったのは1880年代であった。」(303ページ)19世紀は大型帆船と共に始まり、蒸気船で幕を閉じた。
黒船とは何だったか?
日本に来た4隻のうち2隻は蒸気船、2隻は帆船だった。黒船と呼ばれるのは鉄製だからではなく、木製に防水タールを塗装してあったから。そして未だスクリューは使われず、外輪船だった。そして太平洋を渡ってきたのではなく、香港からやって来ていた。
わずか7年後にはオランダで建造・購入した咸臨丸で太平洋を横断する事になる。蒸気船が早いスピードで能力向上していた事がわかる。黒船は先端技術だったのである。
蛇足
幕府はペリー来航の1年前にオランダから「近くアメリカの軍艦が江戸湾にやって来る」と聞いていた。
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