毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

1853年、黒船がやってきた時と今はどうつながっているか?~『日本の「運命」について語ろう』浅田次郎氏(2015)

日本の「運命」について語ろう

 浅田氏は小説家、歴史を学ぶ意味は二つあります。 ひとつは現代につながる考え方や社会のありようを知ること。そしてもうひとつが、平和な時代が続けられなくなった理由について考えることです。(2015)

 

 

1853年黒船来航

4隻のうち外輪式の蒸気船が2隻、あとの2隻は帆船でしたが、遠洋航海のできる西洋式の大型帆船などもちろん日本にはありません。鎖国をしているのですから、もっていないのは当然です。黒船を見て、みんな腰を抜かしました。…当時、最大の海洋産業は、捕鯨でした。クジラを捕獲して工業用の鯨油を取っていた。これはアメリカに限りません。産業革命を果たした各国は、大量の鯨油を必要としたため、世界中で捕鯨をしていたのです。・・・そもそも彼ら(ペリーら)は捕鯨船護衛艦隊でした。ペリー艦隊の正体は捕鯨団の一員なんです。ペリー来航の5年前、アメリカは米墨戦争によってカリフォルニアをメキシコから獲得しています。太平洋に面した国家として、捕鯨もますます活性化すると期待したわけです。(147ページ)

f:id:kocho-3:20151229081332p:plainアメリカの領土拡大

1858年日本は米国と日米修好通商条約を結ぶ

同様の条約がイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも締結されますが、先に条約を結んだアメリカは、いわゆる最恵国待遇でした。一般的に最恵国待遇とは、最初に外交条約を結んだ国を外交上の最恵国として、二番目以降の国は、この最恵国の利益を削り取るような条約を結んではいけないという大原則です。…具体的に言えば、日米修好通商条約には「日本とヨーロッパのどこかの国とトラブルが起こったときは、アメリカ大統領が仲介する」旨が記されていました。…日本のアメリカ化は、昭和20年(1945年)の敗戦以降に、GHQによってもたらされたわけではありません。明治・大正を通じて、日本に最大の影響をもたらし続けたのは、外交上の最恵国であるアメリカです。留学生の数も、実はアメリカが最も多いんですね。(148ページ)

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ウクライナ危機で注目 「クリミア戦争」ってどんな戦争だった? | THE PAGE(ザ・ページ)

ヨーロッパではクリミア戦争が行われていた

ロシアはこの時期、ヨーロッパでクリミア戦争の真っ最中だったんです。ナイチンゲール野戦病院の看護婦として活躍したのが、このクリミア戦争です。ロシアが西ヨーロッパを敵に回して戦った大戦争でした。だからロシアは当時、極東どころではありません。一方アメリカはクリミア戦争にはまったく加わっていません。むしろこの戦争で利益を得ていた。余裕があるから、日本に来て開国を迫ることもできたのです。…日米関係の始まりとは、「戦争に参加しなかった日本とアメリカが手をつないだ」ということでした。これは世界史の行方を決める、重大なできことになりました。(150ページ)

150年前と今をつなぐもの

 

1853年、ペリーの黒船がやってきて215年の鎖国は終わった。捕鯨団の護衛艦として大西洋、アフリカを回りやってきた。産業革命以後、鯨油は低温でも固まらない機械油として需要が高まっていたのである。更にアメリカにとってはカリフォルニアをメキシコから割譲を受けており、北米大陸を確保、対外膨張政策に打ってでる。

その時ヨーロッパはロシア対イギリス、フランス、トルコ、イタリアが戦ったクリミア戦争の真っ最中であった。アメリカはその隙をついて日本にアプローチした。(クリミア戦争産業革命によって軍事力を強化していたヨーロッパがロシアに勝利、ロシアの南下膨張策は止まる。そして2014年ロシアはクリミアをウクライナから分離独立させた。)

1858年以来、日本の外交は一貫して米国から最大の影響を受けている。地政学的構図は今も変わらない。

蛇足

1994年クリントン政権の国防長官ウィリアム・ペリーは、ペリー提督の末柄

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