毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

我々はどうして、初詣とクリスマス、どちらも抵抗無く受け入れられるのか?~「神々の明治維新」に学ぶ、近代国家と宗教の関係

 神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈 (岩波新書 黄版 103)

安丸氏は日本思想史の研究家。

維新政権が打ちだした神仏分離の政策と、仏教や民俗信仰などに対して全国に猛威をふるった熱狂的な排斥運動は、変革期にありがちな一時的な逸脱にすぎないように見える。が、その過程を経て日本人の精神史的伝統は一大転換をとげた。1979年刊

 

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神仏分離廃仏毀釈

 

 

神仏分離といえば、すでに存在していた神々を仏から分離することのように聞こえるかが、そこで分離されるのは、記紀神話や延喜式神帳によって権威すけられた特定の神々であって、神々一般ではない。廃仏毀釈といえば、廃滅の対象は仏のように聞こえるが、しかし現実に廃滅の対象になったのは、国家によって権威づけられない神仏のすべてである。・・・要するに、神話的にも歴史的にも皇系と国家の功臣とを神として祀り、村々の産土社をその底辺に、配し、それ以外の多様な神仏とのあいだに国家との意志で絶対的な分割線を引いてしまうことが、そこで目指されたことであった。(7ページ)

 

近代的国家体制の宗教体制

 

 

伊勢神宮と皇居の神殿を頂点とするあらたな祭祀体系は、一見すれば祭政一致という古代的風貌をもっているが、そのじつ、あらたに樹立されるべき近代的国家体制の担い手を求めて、国民の内面性を国家がからめとり、国家が設定する規範と秩序にむけて人々の内発性を調達しようとする壮大な企図の一部だった。(143ページ)

 

日本の過剰同調性の根本

 

近代社会への転換にさいして旧い生活様式や意識形態が改められ、民族的な規模でのあらたな生活や意識の様式が成立してゆくのは、どの民族にもみられる普遍的な事実であり、それは近代的な国家と社会の成立を基底部から支える過程である。だが、日本の場合、近代民族国家の形成過程は、人々の生活や意識の様式をとりわけ過剰同調のものにつくりかえていったように思われる。(9ページ)

近代国家としての宗教教育

 

神仏分離廃仏毀釈による神道国教化政策は形式的には数年で終了する。その後国家神道は「儀礼や習俗」と位置づけられ、精神性の欠如を教育勅語で補強する方向に転換した。

太平洋戦争を経て、教育勅語は無くなり・・・

 

現代の日本は近代国家体制の枠組みと、国家体制の下部組織の範囲での宗教、つまりは宗教性を持たない宗教儀式のみが受容されている。

初詣、神前結婚、クリスマス、、、

 

今日、私たち日本人の大部分は、宗教とはあまりかかわりのない実利的世俗的な生活様式と生活意識を持っている。・・・宗教的行為がふかい宗教性なしになされるのは、その由来からしても当然のことなのである。

宗教と国民国家

 

宗教とは「人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念」と言われる。近代以降、日本も含め世界において、宗教は人間の作り出した国民国家という概念の下にしか存在できない様になってしまった。だから神道としての初詣、葬式は仏前、キリスト教に従いクリスマスを祝い、宗教的行為を宗教性なしに受容できる。これは人々の内面性が空洞化しており同調性によって行動している事でもある。同調性によって行動する社会、それは社会全体としての精神的引き籠もりとも言える。

蛇足

 

宗教は近代国家を越えられない

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