毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

我々は無意識の存在を忘れてしまう存在である~お茶を一杯飲んで「これ食うて、茶のめ」と言ってみる

<無意識の構造 (中公新書 (481))

本書はユング心理学による無意識の解説、1977年初版!

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ユングの説明~意識と無意識、自我と自己

西洋人の意識を重視する態度に対して、ユングは無意識も大切なものであることを強調し、その両者の相補的なはたらきに注目するとき、われわれは全人格の中心はもはや自我ではなく、自己であることを悟るであろうと述べている。彼はこのことを「自己は心の全体像であり、また同時にその中心である。これは自我と一致するものではなく、大きい円が小さい円を含むように、自我を包含する」とも述べている。(147ページ)

河合氏は西洋文化の特異性を指摘

無意識と明確に区分された存在として、意識の中心としての自我を確立することは、西洋の文化のなした特異な仕事ではないかと思われる。そして、その確立した自我を心全体の中心と見誤るほどに、彼らの合理主義が頂点に達したころに、ユングが自己などということを言い出したのではないか。そのため、彼は心の中心が自我ではなく自己にあることを何度も繰り返し主張している。(151ページ)

東洋人の自我と自己

東洋人は意識をそれほど確立したものと考えず、意識と無意識とを通じて生じてくる、ある漠然とした全体的な統合性のようなものを評価したのではないだろうか。・・・東洋人のほうは、それ(自我)だけではまとまりを持っていないようでありながら、実はそれは無意識にある中心(すなわち自己)へ志向した意識構造を持っていると考えられる。(153ページ)

 

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「これくうて、ちゃのめ」「円相は、すべてのものを包み込む全体性のようなものを、われわれに感ぜしめるのである。」(152ページ)仙厓(1750~1837)臨済宗古月派の僧。日本最古の禅寺である博多聖福寺の住職として活動。

仙がい - 出光コレクション - 出光美術館

自我と自己

我々は西洋社会の仕組みで動いている。教育、事業、様々なものが、「我思う、故に我あり」の自我がすべての中心、意識される自我があり、そこに対し各個人は責任を持つという構造である。一方で日常性格の中には東洋的文化背景を共有している。河合氏の説明に従えば、意識と無意識が一体となりそこに中心となる点を起点として考える。一言で言えば自我だけで行動していない、という事である。西洋社会の仕組みで自我を追求する事と東洋的自己を主体とする事は矛盾しない事に築かされる。そのどちらにも無意識の領域があるのだから、そこを意識に上げる事が少しでもできれば、西洋式でも東洋式でもどちらの場面、より失敗の少ない効率的な思考ができる事に気づく。

蛇足

自我を突き詰める事に疲れたら、お茶を一杯。