毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

”私”とは無意識を自分でやったと考える”お目出度い存在”~『脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説』前野隆司氏(2010)

脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 (ちくま文庫)

前野氏はロボット・ヒューマンインタラクションの研究を行う。意識とは何か。意識はなぜあるのか。「人の『意識』とは、心の中でコントロールするものではなく、『無意識』がやったことを後で把握するための装置にすぎない。(2010)

意識は受動的

「私」や<私>は世界の端っこにいて、無意識の小びとたちの「知情意」の結果を受け入れるだけの脇役だ。小びとたちから見ると、内部モデルも、自分も、世界も同じようなものだ。どれも、小びとたちから情報が流れ出て、その結果何かが起こり、何かの結果がまた小びとたちのいるところに流れこんでくる、という構造になっている。

それは、自分のからだの運動だったり、言葉や行動だったり、他人の言葉や行動だったり、脳内の順モデルによるシミュレーションだったりするが、どれであっても、小人たちから見ると外の世界だ。小びとたちは世界の真ん中にはいない。外の世界とつながっているだけだ。ましてや、「私」と<私>は、外の世界とつながってさえいない。小びとたちが教えてくれたことを通して外の世界のことを知る監獄の中の囚人であって、世界のほんの脇役に過ぎない。(97ページ)

 「私」:自分の現象的な意識

<私>:「私」が感じる意識のうちクオリアを持ってこれが自分だ、と実感できる部分

小びと:神経細胞単位ニューロンが無意識におこなう自立分散計算する機能

内部モデル:外部で起こっていることの特徴を脳の内部で生成されたもの

順モデル:内部モデルの一つで原因から結果をシミュレートすること

逆モデル:内部モデルのもう一つで、結果から原因を推測すること

 

 「私」は何をしているか?

「私」は川の下流で、流れこんでくる情報を見ている。そして、注目すべき特徴的な流れあ(声の大きい小びとの言動)に注目し、そのすべてを自分がやったことであるかのように錯覚している。(106ページ)

 

なぜ意識があるのか?

エピソードを記憶するためには、その前に、エピソードを個人的に体験しなければならない。そして、「無意識」も小びとたとの多様な処理を一つにまとめて個人的な体験に変換するために必要十分なものが、「意識」なのだ。「意識」はエピソード記憶をするためにこそ存在しているのだ。(116ページ)

エピソード記憶:自分が行ったこと、注意を向けたことの記録

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「脳」はなぜ「心」を作ったのか?

 

「心=私=意識」は、脳の神経単位ニューロンによって生成される無意識の中からある部分を受動的に選択する働きのことである。すなわち心とは、無意識がやったことを後で把握するための装置ということになる。前野氏は脳をコンピュータに例えて、1千億個の素子が同時に計算をしているという。我々の脳は一つ一つの計算スピードはコンピュータに比べて決して速くないが、超並列という利点から膨大な情報から一つの大きな川の流れを生成している。よく考えてみれば1千億個の素子の計算結果を、私が意図的に情報を汲み上げることなど不可能なことに気付く。

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前野氏も指摘することであるがこの受動的な意識の捉え方は、「世界に生かされている」、という東洋的な、あるいは仏教的な枠組みと似ている。

蛇足

我々は無意識の情報の流れを傍観し、自分がやったと意識する“おめでたい”存在

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