「世間」はとてつもなく広い、と考える事~習慣的思考から抜け出すために
古来から、日本人の生き方を支配してきた「世間」という枠組。兼好、西鶴、漱石らが描こうとしたその本質とは。西洋の「社会」と「個人」を追究してきた歴史家の視点から問い直す。1995年刊
世間とは
世間とは個人個人を結ぶ環であり、会則や定款はないが、個人個人を強固な絆で結びつけている。しかし、個人が自分からすすんで世間をつくるわけではない。何となく、自分の位置がそこにあるものとして生きている。・・・現在の世間ではこのように比較的狭い交際の範囲をいうのだが、あとで歴史的にみるように仏教の影響下ではもっと広い意味を持っていると受け止められがちである。しかし実際のところ通常の日本人の交際の範囲はそれほどひろくないし、多くの日本人が属している世間も比較的狭いのである。(17ページ)
社会とは
西欧では社会というとき、個人が前提となる。個人は譲り渡すことのできない尊厳を持っているとされており、その個人が集まって社会をつくるとみなされている。したがって個人の意志に基づいてその社会のあり方も決まるのであって、社会をつくり上げてる最終的な単位として個人があると理解されている。(14ページ)明治10年(1877年頃)にsocietyの訳語として社会という言葉が作られた。そして同17年頃にindividualの訳語として個人という言葉が定着した。・・・ということは、わが国にはそれ以前には現在の様な意味の社会という概念も個人という概念もなかった事を意味している。(28ページ)
「世間を騒がせた事を謝罪する」という表現
政治家や財界人などが何らかの嫌疑をかけられたとき、しばしば「自分は無実だが、世間を騒がせたことについては謝罪したい」と語ることがある。この言葉を英語やドイツ語などに翻訳することは不可能である。・・・このような事は世間を社会と考えている限り理解できない。世間は社会ではなく自分が加わっている比較的小さな人間関係の環なのである。(21ページ)
世間知らずの坊ちゃん
この言葉の意味は新しく「団体」に参加した若者を揶揄する時に使われる。「団体」は会社であり、大学であり、普遍性のある社会的空間ではない。我々は世間知らずと言って揶揄する事で「世間は社会ではなく自分が加わっている比較的小さな人間関係の環」の利害のみを考える事を求めているという事が明らかだと考える。自らが所属する「団体」の利益を考える事は当然であるが、それは社会全体の利益を考える事を妨げるものではないし、対立関係でもない。日本に限らず世界の習慣には知らず知らずのうちに視野狭窄に陥らせる仕掛けが入っている。著者は「徒然草の吉田兼行から西鶴、そして漱石に至るまで、わが国の文学の世界はいかに多くを一種の「隠者」に追うてきたことであろう。」(203ページ)と書く。我々は世間の単位で物を考えられるし、もっと時間的にも空間的にも広い世界の視点で物を考える事もできる。世間との関わりを断って「隠者」にならなくとも、複数の視点を使い分ける事で同じ境地に立てる。世間はとてつもなく広い。
蛇足
誰かが世間という時、それは誰かの利害の意味