毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

我々の本当の欲望は何か?~30年前と現在、バブル消費はあっても消費社規の構造は替わっていない

柔らかい個人主義の誕生―消費社会の美学 (中公文庫)

山崎氏は芸術論の研究家。 

石油危機で明け、不況と経済摩擦で暮れた過渡期の70年代から、新しい個人主義と,成熟した〈顔の見える大衆社会〉に進む80年代へ。単行は1984年、文庫1987年刊

 

 

黄金の60年代

 

 

 

60年代は東京オリンピックの準備とともに始まり、大阪万博博覧会の計画とともに終わったことによって、時代の主題を祝祭のかたちで視覚化できる時代になった。ふたつの採点を通じて、人々は経済的な繁栄をことほぎ、「世界の中の日本」を確認し、1日が賑やかに満たされる生活を体験した。(15ページ)

 

近代化100年のゴール

 

 

明治以来の国家目的のほとんど完全な達成のように見え、その目的をともにおってきた日本人ひとりひとりを勇気づけた。・・・経済大国の建設は、50年代に提唱された所得倍増計画と表裏一体の関係にあったからで、これがともに実現された60年代ほど、一つの目的のもとに国家と個人が一体化した時代はなかった、とみる事もできる。(21ページ)

 

国家が小さくなった

 

 

70年代に入ると国家として華麗に動く余地を失うことになった。そして、そのことの最大の意味は、国家が国民にとって面白い存在ではなくなり、日々の生活に刺激をあたえ、個人の人生を励ましてくれる劇的な存在ではなくなった、という事であった。

 

近代化は生産優位の時代

 

 

ウェバーの観察によれば、初期産業化社会を生んだ17世紀のプロテスタントたちは、まさに、あらゆる消費を生産の製品で行おうとした人々であった。注目すべきは、(カルビン派プロテスタントの)彼らはすべていにわたって禁欲主義者であったが、なかんずく、特に時間の浪費について禁欲的であったという事実である。(169ページ)

 

大きな物語の終焉

 

日本は西洋に「追いつき、追い越せ」が目標であった。そしてその目標を達成したが故に社会で、あるいは国家単位での「大きな物語」を喪失する事になる。今までが何をすれば豊かになれる共通認識があったのに対し、すべてが不確実になっていった。

本書の主題は個人消費の変遷。80年代に入り「消費者の需要を自明のものとしてあてにすることができず、逆に彼らの需要が何であるかを研究し、開発することにより多くのい力をかさねばならない」(171ページ)時代になったという事である。

時間を消費する

 

80年代以降消費はモノの消費の形態を取りながら、時間を消費する事を目的とする行動に推移していくと分析する。それを著者は「柔らかい」消費と呼ぶ。近代社会の「少しでも早く」というパラダイムからのシフトである。しかし「少しでも早く」という価値観は30年を経過した今も社会の共通概念として残っている。17世紀以来、確立した仕組みはそう簡単には変化しない。80年代のバブルの消費ブームを経てなお、我々は何を欲しているか、それを追求する事にまだ慣れていない。

蛇足

 

自分の欲望とは何か?

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