毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

東インド会社の東インドはどういう意味か知っていますか?~『東インド会社とアジアの海』羽田正氏(2007)

東インド会社とアジアの海 (興亡の世界史)

  羽田氏は比較歴史学の研究家、喜望峰からバタヴィア、そして長崎にいたる海域を「商品」で結んだ東インド会社とは?(2007)

そもそも東インドとは

アフリカ南端の喜望峰からマゼラン海峡に至る間に位置する海岸沿いの諸地域はすべて「東インド」と認識された。従って、現在のインド亜大陸だけでなく、アラビア半島ペルシャから東南アジアを経て中国に至るまでのアジア諸地域はすべて東インドの国々ということになる。…従って、「東インド」という言葉と「アジア」という言葉は、相当程度重なりあう。(26ページ)

 1602年オランダ東インド会社誕生

オランダ共和国政府からこの会社に特許状が与えられた。46ヶ条からなる特許状によると、オランダと東インド間の喜望峰経由の貿易は、特許状発行から21年間この会社が独占することとされた。…東インドで要塞を建設する権利、総督を任命する権利、兵士を雇用する権利、それに現地の支配者と条約を結ぶ権利が会社に与えられた。・・・この会社のために集められた資本は一度の航海だけでなく、10年間据え置かれたということだ。…この間いったん集められた資本をどのように使うかは、会社が決定した。これは、現在の株式会社に一歩近づいた方式といえるだろう。(85ページ)

ヨーロッパの輸出商品

東インド会社を生み出した北西ヨーロッパにだけは、他地域の人々が欲しがるような特産品がほとんどなかった。・・・有力な輸出用商品を持たずしかも物価が高いという二重のハンディキャップを北西ヨーロッパの人々が克服し、アジアの海での貿易活動に参加できたのはアメリカ大陸の存在があったからである。北西ヨーロッパの人々がアジアの物産と交換した「自分たちの」商品は、主として南北アメリカという本来別の地域で算出する銀だった。(354ページ)

東インド会社を俯瞰してみると

東インド会社の行動は、例えて言えば、ほとんど元手をかけずに(南北アメリカという)人の家から持ち出したお金を使って、本来足を踏み入れることのできないはいずの店(アジア地域)の一流品を買い、それを自分の家(ヨーロッパ)に持ち出して利用したり、売却して利益を得たりしていたということである。このような行動を200年も続ければ、北西ヨーロッパが全体として豊かになり、世界をリードする経済力を身につけるのは当然だろう。アメリカの銀とアジアの物産が「近代ヨーロッパ」の経済的基盤を生み出したのである。(355ページ)

東インド会社とアジアの海

東インド会社がイギリス、オランダ、フランスで設立されて約200年、1800年までの間北西ヨーロッパは特産品を持たなかった。それを逆転させたのが18世紀末からの産業革命であった。産業革命は、東インド会社がインドから輸入した綿織物に対抗できる品質と低価格を実現させる為の努力によるものであった。

我々はヨーロッパの品々に一流、という先入観を持っている。これはあくまで産業革命以降に確立したイメージでしかないと気づく。それ以前はアジアの香辛料、綿製品、お茶、陶磁器物などが価値を持ち、ヨーロッパを圧倒していた。ヨーロッパは産業革命で形勢を逆転させる。東インド会社が活躍した1600年からの200年間、ヨーロッパは、アジア、アメリカとの交易で富を蓄えていった。東インド会社が今につながる西欧社会を形づくっていた。

蛇足

 

 

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