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2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

ノーベル文学賞、その傾向と対策~『村上春樹はノーベル賞をとれるのか?』川村湊氏(2016)

村上春樹はノーベル賞をとれるのか? (光文社新書)

川村氏は作家、ノーベル文学賞は文学の本質的な問題ではない。

2016年ノーベル文学賞の発表前に出版された。(2016年9月)

日本人とノーベル文学賞

1968年には、川端康成を通じて非西欧世界の日本にも文学と呼べるものがあるという発見(「日本人も、文学してる!」)がなされたのであり、1994年の大江健三郎の場合は、非西欧世界にも現代文学があるという発見だった。・・・(次の日本人受賞者には)人類社会に普遍的な「世界文学」が、日本語によってなされていることの証明を求めるはずなのである。(220ページ)

世界文学とは

ノーベル文学賞が、「世界文学」という理念を持っていることもまた、明らかだ。これは西欧的普遍主義、合理主義的思想を背景に持つインターナショナリズム国際主義)であって、ヨーロッパ中心主義、人間中心主義の根本的なものであることを疑うことのないものであった。(90ページ)

ノーベル文学賞というのは、本質的には「世界文学」というものへの見果て夢の産物であり、現実的にいえば翻訳文学の文学賞にほかならない。(6ページ)

各言語持ち回り制

ノーベル文学賞が、各言語、各国(地域)の“持ち回り”で決められていることはほぼ確実である。(82ページ)

日本語は、1968年の川端受賞から1994年の大江受賞までを単純計算すると26年の間隔だから、次の日本語文学者の受賞は、2020年ということになる。・・・日本文学の約25年、約四半世紀に1回という期待は妥当なところだろう。とすると、村上春樹であれ誰であれ、3人目の受賞者は2020年(頃)に出るということになる。(88ページ)

日本語枠から東アジア枠へ

だがここで考えなければならないのは、日本語、日本文学の枠というより、これはアジア枠、あるいは東アジア枠と考えるほうが実情に沿っているだろうということだ。つまり、川端の1960年代、大江の1960年代は、非ヨーロッパ言語の枠は、ほとんど日本語だけで占めていたが、中国、韓国の文化的文学的台頭によって、これは東アジア枠と考えなければならないのではないかということだ。(88ページ)

ノーベル文学賞の傾向と対策

本書は2016年のノーベル文学賞の発表前の2016年9月に出版された。川村氏はまえがきで「世界文学には、村上春樹以外にも素晴らしい文学作品が、ノーベル文学賞の受賞者にも、受賞しなかった作者にもあることを知って貰えたら」と書く。

2016年の文学賞について「アメリカ合衆国、アフリカ地域、アラブ地域からの受賞が有力視」(巻末年表より)、「ボブ・ディランノーベル文学賞を、という動きがあるそうだが、ポップカルチャーとしての歌詞に賞が与えられることはまずないと考えられる。」(154ページ)と予想した。私はボブ・ディランに言及した著者に勇気を感じる。

ノーベル文学賞ノーベル賞の限界を良く示してくれている。日本人第三の受賞者は「人類社会に普遍的な『世界文学』が、日本語によってなされていること」の証明を求められる。著者が“日本語によって“と分析することが西欧中心主義的アプローチであることが明白になる。西欧以外の地域の方が広く発表される文学作品もまた東アジアを筆頭にラテンアメリカ、アラブ地域など多い。それを1年1人でカバーするのは土台無理がある。

文学が書物からマルチデバイスへ、あるいはマルチコンテンツへと変化しつつある今日従来型の文学だけに限定することは無理がある。2016年ノーベル賞はここに挑戦した。今後は受賞候補の領域がますます広がっていく。ますます選考(と予想)は難しくなるであろう。

このことはノーベル賞といえども絶対的価値ではなく、他人が作った価値尺度に過ぎないということを明確にしてくれる。村上氏の著作活動は今後も続く。

蛇足

村上春樹氏は芥川賞を受賞していない。

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