毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

洞窟の壁画は誰の為に書かれたのか?~『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』ベンヤミン×多木浩二氏(2000)

ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)

ベンヤミン( 1892~1940)はドイツの文芸批評家、写真や映画による機械的複製は、芸術作品の精巧かつ均質なコピーの大量生産を可能にした。かつて作品のオリジナルは「いま」「ここ」にしか存在しえないという一回性によって権威を保っていたが、あらゆる状況に存在しうるコピーはオリジナルを本来置かれていた文脈から時間的および空間的に切り離してしまう。

「複製技術時代の芸術作品」ヴァルター・ベンヤミン | 現代美術用語辞典ver.2.0

 

 

始源の芸術作品

最古の芸術作品は、ぼくらの知るところでは、儀式に用いるために成立している。最小は魔術的な儀式に、ついで宗教的な儀式に用いるために。ところで、芸術作品のアウラ的な在りかたが、このようにその儀式的機能と切っても切れないものであることは、決定的に重要な意味を持っている。いいかえると、「真正の」芸術作品の独自の価値は、つねに儀式のうちにその基礎を置いている。(146ページ)

石器時代の人間が洞窟の壁に模写した大鹿の像は、魔術の道具であって、仲間たちに展示されることがあるとしても、このことは偶然でしかない。何より重要なことは、その像が精霊たちによってみられることだった。(148ページ)

複製時代の芸術作品

1900年を画期として(写真や映像の)複製技術は、在来の芸術作品の総体を対象とするkとにより、芸術作品の影響力に深刻きわめる変化を生じさせる水準にまで、到達したのだが、・・・複製技術はそれ自体、独自の場を確保する水準にまで、到達したのである。・・・芸術作品は、それが存在する場所に、1回限り存在するものだけれども、この特性、いま、ここに在るという特性が、複製には欠けているのだ。(139ページ)

複製技術は複製されたものを、伝統の領域から切り離してしまうのである。複製を大量生産することによってこの技術は、1回限りの出現の代わりに、大量の出現をもたらす。そして受け手がそのつどの状況のなかで作品に近づくことを可能にすることによって、複製された作品にアクチュアリティーを付与する。伝えられてきた作品は、この二つの過程を通じて、激しく揺さぶられる。(142ページ)

デジタル化されることが前提の芸術作品

 

現在我々は芸術作品の多くに複製技術を通じて接している。本書が執筆された1935年から80年を経て更にデジタル化の進んだ今日、複製技術のみを通じて接していると言った方が正しいかもしれない。

芸術の始源をたどると、洞窟の壁画は精霊の為に描かれた、ということに驚かされる。そこには複製技術の持っていないアウラ(事物の権威、事物の伝える重み)に満ち溢れている。洞窟の壁画を見ることのできる人間は限定され、かつ洞窟に赴かなければ見ることができなかった。「いまだけ」と「ここだけ」によって権威が生まれていた。

最新デジタル技術によって複製可能な芸術と洞窟の壁画の間に、芸術の歴史が横たわっている。

蛇足

 

ジョギングしながら聞く音楽もまたアクチュアリティーを持った芸術である。

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