創作活動は孤独なもの、だからこそ創作者は場を共有する~『歌仙の愉しみ』大岡信/ 岡野弘彦/丸山才一(2008)
当代随一の詩人、歌人、小説家が揃って、一巻三十六句の調べを織りなす。古きよき歌ことばから現代語まで、とっさの受けは縦横無尽。(2008)
丸山才一氏の「わたしたちの歌仙」より。
歌仙の愉しみ
連句は五七五の長句と七七の短句とを互い違いに組み合わせて作る詩です。原則として、何人もが一同に会して合作をやる。(ⅰ)
連句はもともと、鎌倉=室町のころはやった連歌を俗に崩したもので、芭蕉以後、盛んになった文学形式。藝術であり、社交の具であり、娯楽を兼ねる点で茶事に似ています。いはゆる俳諧とは本来この連句のことを指す。一句立ての句は連句の発句から独立したもので、もともとは格が低かった。(ⅱ)
合作の持つ意味
文学でも、詞華集の編纂などは一種の合作と見立てることができさうだし、たとへば『平家物語』とか『水滸伝』とか『千一夜物語』とかは、長期にわたつて大勢の作者たちが参加したせいであれだけ豊かなものが生まれたのではないか。そこから推して、合作といふ方法こそ、現代文学が偏狭で浅薄な個人主義的表現から脱出する可能性を示唆するものだとは言えないかしら。(ⅲ)
歌仙事はじめ
近頃は大岡さんを宗匠格にして、岡野弘彦さんとわたしの三吟で巻くことが多い。これがわりあひ具合がいいみたいです。
詩人と歌人と小説家
仏文系と国文系と英文学
静岡県生まれと三重県生まれと山形生まれ
教員の子と神官の子と医者の子
という具合に三人三様てんでんばらばらで、しかしそれにもかかわらず王朝和歌への親愛という点で同類なのがいいのかもしれません。・・・会するには赤坂のそば屋の二階で、午後の一時ころからはじめて六時か七時に終わる。(ⅵ)
昂揚~嬉しさ~意外性~達成感
連衆が揃って、発句の候補者がいくつか差し出され、宗匠が、丈の高い、おもしろい、しやれた一句を選んでいよいよはじめる時の昂揚した気分。・・・ちょうど丸本歌舞伎時代ものが、御殿や社前を扱う格式ばった大序からやがて世話話に移るやうに気分が乱れ、滑稽がまじり、筋が突飛になつてゆく進行の妙を、自分たちも古俳諧にかなり近い趣で展開してゆくときの嬉しさ。ちょっと停滞ぎみかなと案じていた局面が、誰かの一句のせいで急に活気づく意外性。そして揚句を宗匠が認めてめでたく巻き終えたときの達成感。(ⅸ)
ブレインストーミングと創作
ブレインストーミングとは、集団でアイデアを出し合うことによって相互交錯の連鎖反応や発想の誘発を期待する技法である。歌仙がこれに似ている。
歌仙はブレインストーミングの様に反射的に行わない。衆名が集まるとは言え、一句一句を作るのは各人。そこには創作の孤独がある。孤独な創作を続ける傍で行われる参加者の世間話、これらの間を行ったり来たりする事が「快楽」(ⅸ)なのであろう。こんな世界があるとは知らなかった。
蛇足
揚句の由来は歌仙だった。
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