8世紀、遣唐使は帰還率60%、どうしてそんなに遭難したのか?~明治の西欧化と同様、日本史上の例外期
東野氏は日本古代史の研究家、「七、八、九世紀の約三百年にわたる日本古代外交の実態と、その歴史的な意義を読み解く。」2007年刊
遣唐使の時代は、日本の国家機構の確立期、そして例外的な時期
遣唐使の帰還率は60%
出発や帰還時期の制約から来る遭難が付き物で、無事に帰還できた人数は概算で約6割程度だった。(49ページ)朝貢の使いであった遣唐使の場合、「朝貢史」として、唐の都で行われる元旦朝賀の儀礼に参加するのが原則であったとみられ、大陸での旅程を計算に入れれば、最終的な出発は、遅くても現在の9月ごろまででならなければならない。一般的に航海に好い季節とは言えない夏に出発する使いが多いのは、そのためだった。(78ページ)
遣唐使は400-500名の“大型ミッション“
・大宝の使節(702年)以降になると、1回につき4~5百人あまりの編成で、船は4隻という形が定着する。
・多くは舟行を含む(長安への)長旅に2カ月から3カ月を費やしたのである。
・長さ30メートル、幅9メートル、喫水2.6メートル、排水量270トン、積載量150トンぐらいと推定されている。(66-95ページ)
当たり前だが、ちゃんとした外洋船遣唐使 - Wikipedia
日本の輸出品
・あしぎぬ、真綿などの綿製品、麻布
・銀、鉱物製品
・油、油脂、植物甘味料
貨幣経済の不十分だった日本の古代に、貢納品となったのは、現物貨幣の意味を持つ品がほとんどであった、それらは海外でも貨幣の替わりになったことは同じである。世界から奇貨のもたらされる唐朝において、中途半端な製品より、貨幣的な物が歓迎されるのは当然であった。(149ページ)
唐からの輸入品
・漢籍と呼ばれる中国の思想、制度、歴史、文学に関する書物と仏教経典
・仏像などを含む美術工芸品
・薬物・香料と動植物
目立つのは日本に残された唐代文物の豊富さである、東大寺の宝庫だった正倉院には銘文から唐での作と確かめられる品や、銘文はなくても明らかに唐その他の外国製品と推定できる品が少なからず蔵されている。(157ページ)
改めて遣唐使とは
遣唐使というと遭難の危険にも関わらず命を賭けて渡航した、という漠然としたイメージを持っていた。10-20年に一度、4隻の船団で渡航するという大がかりな物であると気付く。航海術が稚拙というより、夏しか出航できなかった事が要因。そして、当たり前の事だが無償ではなく、朝貢品、貨幣に近い物資、で行われていた。
遣唐使は朝貢外交であり、統治機構としての仏教、技術格差・経済格差を埋める情報導入の為であった。改めて一大外交・通商取引だったと気づく。著者は8世紀の50年間が明治期の西欧化以上に変化が激しく、日本の歴史で例外的時期であったと指摘する。
蛇足
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