毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

現代の資本主義が探しているもの、それは新しい記号

「欲望」と資本主義-終りなき拡張の論理 (講談社現代新書)

 

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 資本主義とは何か?

資本主義は、つねに新しいものをめぐって競争しつつ拡張し、発展してゆく経済だ。こうした競争や、拡張のプロセスの中で、経済は環境の変化や、「与件」の変化に対応してゆくのである。

市場経済が、計画経済に比べて能率的な資源配分を行うのは、一定の資源のもとで、人々の好みが概して変化しない、技術の革新がそれほどおこらない、新たなマーケットの開発があまりおこらない、といった条件のもとでの話なのである。

商品は欲望を拡張する

企業活動が活動してゆくときには、同時に商品というかたちをとる、人々の欲望の拡張があるはずなのだ。言い換えれば、資本主義とは、人々の欲望を拡張し、それに対し物的な(あるいは商品という)形をたえずあたえてゆく運動だといってよかろう。・・・それは企業と消費者の共犯になるトータルな運動なのである。その両者が結合して欲望のフロンティアを拡張してゆこうとする運動なのである。

資本主義はバブル的投資を区別できない。これに対して商品を売るというかたちを取る限り、それは欲望の拡大である。しかし、投機においては、消費者という回路を迂回しなくても資金は大きくなる。・・・バブル的な投機と、固定資本への投資を区別するような基準は、資本主義そのものの中にはない。その意味でも、バブルは資本主義の運動と不可分なのである。(207ページ)

資本主義は成功するが故に行き詰まる

欲望のフロンティアの拡張の運動としての資本主義はますます、限界に近づきつつあるように見える。・・・(資本主義が行き渡ることにより)どこでも同じものが手にはいるということになってしまうと、逆に「資本主義」の欲望を拡張し、冒険的精神をふるいたたせた、異質な文明や異文化に対するあこがれにも似た感情は薄れてくる。(212ページ)

消費の記号論を自動車で例える

東ドイツ製のトライバンドをみてもわかるように、仮に基本的な性能は満たしていているとしても、それ以上のものではない。(28ページ)

商品は本質的にシンボルであり、コミュニケーションのメディアだという。たとえば、車は、ただ人を運ぶ道具なのではなく、ステータスを表したり、趣味を表したりする。つまり「何か」を表し、他人に「何か」を伝達するシンボリック・メディアだ、という。・・・20世紀初頭のアメリカにおいて自動車が果たした役割もこうしたものだ。・・・いま(1990年初頭の本書出版当時)、トヨタが日本の経済力を象徴するような車を果たして作れるであろうか?(166ページ) 

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 ベルリンの壁崩壊直後のベルリン市内を走るトラバント、1958年から1991年までの長期にわたって大規模なモデルチェンジは行われないまま生産。トラバント生産財であり消費の記号性は持ち合わせていない。

 

本書は1993年バブル崩壊直後に出版。当時から20年を経過、その後ITバブル、(2000年)、リーマン・ショック(2008年)が発生した。資本主義の消費の記号性は20年前に比べますます薄れている。資本主義のフロンティアは新しい記号性のある消費を確立する事である。しかしながら金融取引(上記に沿えば投機と言い換え可能)の拡大は、新しい記号性を象徴する商品の登場が少ない事を示している。資本主義そのものは新産業を選択的に育成する仕組みが存在しないからである。

蛇足

新しい記号性こそがフロンティア