日本でコモディティ化して競争力を失った最初の産業は何か?~150年前の構図は今も変わらない
茶の世界史―緑茶の文化と紅茶の社会 (中公新書 (596))
角山氏は西洋経済史の研究家、本書は1980年!の出版。
16世紀に日本を訪れたヨーロッパ人は茶の湯の文化に深い憧憬を抱いた。茶に見せられ茶を求めることから、ヨーロッパの近代史は始まる。なかでもイギリスは独特の紅茶文化をつくり上げ、茶と綿布を促進剤として伸長したイギリス資本主義は、やがて東洋の門戸をたたく。突如世界史上に放り出された開国日本の輸出品「茶」は、もはや商品としては敗勢明らかだった。(本書扉より)
幕末の開国時、日本の輸出産品は生糸と茶
日本が資本主義的世界市場に強制的に組み込まれたとき、日本はさしあたり世界市場に対して生糸と茶でもって国際分業の一環を担うことになる。
幕末の時代、日本の総輸出に占める茶の割合は生糸に次ぐ重要な地位を占めていた。(129ページ)
グローバル商品としての茶
イギリスは当時世界最大の茶の輸入国であったが、1850年代までは中国が茶の生産と供給面で世界史上をほぼ独占していた。しかしチャイナ・クリッパー船が中国茶の運搬に激しいティ・レースを展開していた50年代、インドにおいては、アッサム茶の発見と試食が着々と成功し、いまやインドが茶生産国として急速に台頭しつつあった。また50年代末から60年代にかけては、価格の訳し日本茶が桑田って、中国茶の独占に挑む事になった。
1880年代 半ば、茶の供給地としてインドが急速に台頭
インドにおける茶業の急速な拡大につてて、イギリスの紅茶輸入の流れは大きく変わった。中国茶は1860年代末においてなお90%を占めていたが、インド茶の進出の前に、70年代では90%から80%へ徐々に比率を下げ、80年代中頃セイロン茶が参加することによって、そのころから中国茶は50%を割ってしまう。こうして中国茶独占の時代は、あっけなく終わってしまう。
英国の植民地経営の勝利
インド茶円のもっとも大きな特色は、プランテーションによる大規模な資本主義的経営方式であった点にある。(中略)インド茶・セイロン茶が世界市場においてしだいに中国茶を圧倒してゆくのも、単に品質や宣伝方法においてすぐれていたことのほかに、基本的にはインド植民地における、前近代的労働関係を基礎としたイギリスの大規模資本主義的経営が、中国や日本に家族的小規模経営を駆逐してゆく過程として捉えることが必要である。(158ページ)
日本茶の世界市場での敗北は明治30年代(1900年代)代初めには明白
日本内地における茶樹栽培面積は、だいたいにおいて明治25年以降逓次減少の傾向を辿るとともに、茶の総輸出高も第一次大戦中の異常な時期を除けば、明治28年にピークを記録して以後は、停滞あるいは逓次減少を示したのである。しかも茶業の運命を決定づけたのは、明治30年代中頃までに日本の産業とその輸出が変化したこと、つまり工業化の進展に伴う綿製品、絹織物など軽工業の輸出への貿易構造の変化、及び大正期における重工業への産業構造の転換がそれである。(207ページ)
英国の植民地経営に関する考察、コモディティ化
私はここに資本主義の一つの定石、対象の「コモディティ化」を見いだす。本来インドでは茶は栽培されていなかった。イギリスは中国から茶の苗木と製造方法という知的所有権、過酷な労働を支えるクーリー(苦力、反奴隷状態の労働力)、ヨーロッパの購買市場、そしてそれらをまとめる資本をすべてインドに持ち込んだ。インドが提供したのはある意味土地と自然環境だけだった、当然、茶産業の収益はインドに再投資又は還元される事はほとんどなかった。
日本がグローバルな資本主義体制で経験した最初のコモディティ化した商品それが茶である。「茶」を例えばエレクトロニクス産業に置き換えてみる、構図はまったく変わらない事に驚く。
蛇足
岡倉天心の「茶」の本の出版は1906年、茶の文化的価値のプレゼンテーション、Japan Cool。