毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

過去はいつも新しく、未来は不思議に懐かしい~書評「私が最も尊敬する外交官」by佐藤 優

<私が最も尊敬する外交官 ナチス・ドイツの崩壊を目撃した吉野文六

ヒトラーの最期」をベルリンで目撃した若き外交官が、のちに沖縄返還の密約を初めて公に認めることになる。真実を語った吉野文六が体験した戦時の日本外交の海原に、佐藤優とともに漕ぎ出そう。(本書帯より)

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当時の吉野氏の日誌には原子爆弾の事は言及されていない、吉野氏は広島への原爆投下を知り、エルパソの事を思い出す。

吉野氏文六氏と佐藤優氏の交差点

2006年2月に北海道新聞の取材に対して、吉野氏は密約の存在を認めた。・・・私は、2006年7月26日、横浜市の吉野邸を訪れて、真実を証言した動機について質すと、それについては述べずに「結局、私の署名なり、イニシャルのついた文書が、アメリカで発見されまして、これはおまえのサインじゃないか、イニシャルじゃないかと言われたら、肯定せざるを得ないという話です」と答えた。(397ページ)

吉野氏の証言①~1941年4月18日米国ホノルル

ハワイにおいては、まだ米軍は全然戦争の用意をしていなかったんですよ。日米学生会議で知り合った、チャーリー木村さんというハワイ在住の日系二世の有人が、オアフ島を自動車で案内してくれて、海軍の港、パールハーバー全体が見下ろせる所まで連れていってくれた。パールハーバーの沖合には、アメリカの艦隊が一列に停泊していました。水平線の向こうまでずーっと。ところがその海軍の艦隊は、みんなまだ、白くペンキを塗っていただけなんですよ。(73ページ)

吉野氏の証言②~1941年4月26日米国エルパソ

恐らく私の記憶ではエルパソを少し行ったところだったと思います。列車がどこかの駅に停まった。20分だったか30分だったか良く憶えていませんが、われわれは4-5人でプラットフォームを歩いていた。すると一人の男が近づいてきた。男は、自分から共産党員だと言いましたが、私たちに向かって「アトミック・ボム(原子爆弾)」というのを知っているか」というような話をするんです。(77ページ)

吉野氏の証言③~1944年春ベルリン

重要なことはもちろん電報にしました。電話では家族と話す場合が多かったですね。ただ一つの例外があって、鹿児島弁をつかって、仕事の電話をすることがあるのです。鹿児島弁というのは、普通の外国人にはわからんわけですね。(174ページ)

今では日本がむしろ得意になってしまったカメラとか望遠鏡とかのレンズですね。こrをたくさん潜水艦で日本へ運んでいたんですよ。・・・一つは、金を日本から持ってきたのですよ。それと機材を引き換えて。いわゆる戦略物資です。(192ページ)

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歴史の断片に驚かされる

1941年12月真珠湾攻撃の8カ月前に吉野氏はホノルルで米国太平洋艦隊を見た。戦争が密室で非公式に決まる以上それを陰謀と呼ぶのはたやすい。①の吉野氏の証言を素直に信じれば陰謀論の様な見方は大きな意味はない。②について佐藤氏は共産党員との遭遇う米国の諜報活動が仕組んだものであろう。私は原子爆弾は米国が一切秘密裏に開発したと思っていた。日本政府は原子爆弾の存在を知る事ができる立場にあった。そして米国は日本との戦争を原子爆弾という軸で最初から最後まで考えていた事がわかる。③でわかる事は「日独軍事同盟が紙の上での約束を越える実体的関係ではない」(188ページ佐藤氏)事を実感する。日本とドイツの同盟は政治的なものに留まっていたという事。結局の所第二次世界大戦に対して「日本が精神力のみでアメリカ軍に対抗しようとしていたというのは、戯曲化された見方」(228ページ佐藤氏)であるという事。我々は歴史を時に楽観的に、時に悲観的につまりは感情に沿うように戯曲化して見ている。

蛇足

「過去はいつも新しく、未来は不思議に懐かしい」

(by生田 萬氏)

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