毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

胡椒は400年前”救いの象徴”だった~『胡椒 暴虐の世界史』M・シェーファー氏(2015)

胡椒 暴虐の世界史

 シェーファー氏はサイエンスライター、人びとはなぜ、血眼になって黒胡椒を求め、命を賭してまで危険な航海に出たのか?血で赤く染まった胡椒の争奪戦(2015)

 

大航海時代は胡椒と共に

ヨーロッパ大陸の人びとを未知の海での、見知らぬ地での冒険に駆り立てたのは、胡椒と胡椒がもたらしてくれる富に対する途方もない欲求である。・・・15世紀のヨーロッパ人がインドへの航路を執拗に探し求めたのは、胡椒を手に入れたかったからだ。・・・大航海時代の幕を開けたのは胡椒である。(19ページ)

胡椒は赤く染まっている

黒胡椒の歴史と切っても切れないのは、イギリス東インド会社とオランダ東インド会社(VOC)という植民地主義の不正の代名詞のような二つの会社である。胡椒はまた、悪賢いアヘン貿易を生んだ。インドのマラバル地方産の胡椒の代金を、最初にこの麻薬で支払ったのはオランダ人である。西暦1500年以降、(インドの胡椒の集散地である)カリカットでは「血で赤く染まっていない」胡椒は一粒とで手に入らない・・・。(21ページ)

胡椒は“救いの象徴”から“嗜好品”、そして“食材”へと変化

胡椒は(中世ヨーロッパの)のちの17世紀、オランダとイギリスの東インド会社によって膨大な量がヨーロッパへ輸入されたが、・・・胡椒は単なる一商品になり、人々の味覚の変化につれて需要も減っていった。18世紀になると、東方からの輸入品としては胡椒以外の商品、とくに茶とコーヒーが圧倒的に好まれるようになる。胡椒が中世人の想像力をかき立てたのは、一つには当時の日常生活が悲惨なものだったからであろう。人々は病気に倒れ、疫病に苦しみ、飢餓で餓死した。・・・こうした過酷な環境のなかで胡椒は救いを表していた。中世ヨーロッパの人びとは、より穏やかな暮らしへの願望を東洋に結び付けたのだ。東洋はヨーロッパ人が思い描く一種の楽園であった。・・・古代からスパイスは神秘的な東洋の一部と見なされていた。・・・地上の楽園のイメージと並んで大航海時代を特徴づけたのは、東洋は胡椒などのスパイスで満ち溢れる地だという信じ込みであった。(39ページ)

胡椒、暴虐の世界はなぜ起きたのか?

18世紀ヨーロッパで胡椒は“救いの象徴”であった。生命そのもの、と言っても良いであろう。我々は生命の為ならお金を払う。大航海時代とその後の植民地経済、そこには本書副題の“暴虐の歴史”が常に存在した。

人は幸せになりたいがために、人を不幸にする。人は胡椒に幻を見ていた。そして幻想だからこそ理由もなく、胡椒は嗜好品になってしまった。

蛇足

今のあなたの”救いの象徴”と、胡椒との違いは何ですか?

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