毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

自分の頭上の、何もない、高くて広い空を見上げることはできる~『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野 武氏(2015)

新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか

「時代を作る人は、いつだって古い道徳を打ち壊してきた。誰かに押しつけられた道徳ではなく、自分なりの道徳で生きた方がよほど格好いい。

自分なりの道徳とはつまり、自分がどう生きるかという原則だ。

今の大人たちの性根が据わっていないのは、道徳を人まかせにしているからだ。それは、自分の人生を人まかせにするってことだと思う」

 

世間の道徳とは

道徳は社会の秩序を守るためのもの・・・といえば聞こえはいいけれど、それはつまり支配者がうまいこと社会を支配していくために考え出されたものなんだと思う。(104ページ)

教室の子供に押していい唯一の“道徳”

ただ、ひとつだけ誰にでもあてはまることは、みんな幸せになりたいと思っているということだけだ。「本当の意味で、傷つきたいと思っている人は一人もいない。だから、自分が傷つきたくないなら、他の人を傷つけるのはやめよう」(133ページ)

北野氏の道徳

俺はカミさんが「離婚したい」っていったら、すぐに離婚することにしている。だけど俺の方から、カミさんに離婚しようというつもりもない。俺はやりたいようにやるけれど、そういう俺の妻でいたいという限り、妻の座はいつまでもカミさんのものだ。収入は全部まっすぐカミさんの口座に入るようになっている。自分がいくら稼いでいるか、まったくわからない。俺はカミさんから、小遣いをもらって生活している。(154ページ)

それは世間では認められない

最近は、自宅にもめったに寄りつかない。カミさんともほとんど会っていない。夫婦は死ぬまで仲良く一緒に暮らすべきだって道徳の持ち主からしたら、醜い奴だということになる。・・・神さまとは関係なしに、自分の道徳で生きていけばいいと思っている。悪い道徳かもしれないけれど。「女遊びなんて、するに決まってんじゃねえか」みたいな。世間的にはあまり認められない道徳だろうけれど、そんなことはどうでもいい。当然その道徳には、「これだけはしない」とか「カミさんの権利は守る」とか、自由にやっている分だけ、自分を縛るルールが入っているのだ。(155ページ)

自分の道徳は自分で作る

人間として生きるには、やっぱり道徳はあった方がいい。ただし、他人の作った道徳に鼻面つかまれて引っ張り回される必要はない。道徳は、自分で作るに限る。(156ページ)

人間の本性

 

北野氏は道徳を自分で作れ、という。その時に必要となる最低限の道徳は「まずは自分がいつか死ぬ、メメント・モリをよく考えろ」と言う。我々が従っている他のルールはすべて誰かが誰かの都合で作った道徳である可能性がある。

北野氏は自身の家庭の道徳を引き合いにだす。北野氏の“道徳”の賛否を問うているのではない。北野氏とその家族が決定することであり、私がその様にしたいと思っている訳でもない。北野氏は自分の事を本書で書く自由がある。それは北野氏が自分の道徳で生きている証でもある。

「成功はしなくても、自分の頭上の、何もない、高くて広い空を見上げることはできる。」(146ページ)なのだから。

蛇足 

メメント・モリ以外の道徳は自分で決めていい

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