毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

「どっこいしょ」の由来を知っていますか?~『さすらいの仏教語』玄侑 宗久 氏(2014)

さすらいの仏教語 (中公新書)

 玄侑氏は作家、私たちの周りでは仏教由来の言葉が数多く使われている。(2014) 

言葉とは

 

 

言葉は人間の一生とは比べものがないほど長生きだ。いや、短命な言葉も勿論あるが、ここで取り上げた言葉たちはみな果てしなく長寿である。多くはインド、中国などを起源とし、日本でもその意味する内容を微妙に変化させつつ生き延びてきた。そして生き延びるということは、世間の荒波に揉まれながら変化したり、分化したり、場合によっては翻訳などによって別な意味や思想と合流することもある。なんといっても生き物だから、起源から遥かに「さすらい」ながら逞しく生きていくのである。(はじめにⅱ)

 

どっこいしょ

 

 

立ったり座ったりするとき、「どっこいしょ」と呟いたりすると「年だなあ」なんて冷やかされる。あるいは自分で自嘲のわらいを漏らしたりするわけだが、この言葉、もともとは「六根清浄」がなまったものだと云われる。富士山に登るとき、「六根清浄、お山は晴天」と呟きながら登る人々はいまだにいるが、どうもその人々が疲れてくると「ろっこんしょうじょう(六根清浄)」がくずれ、周囲には「どっこいしょ」と聞こえていたらしい。

 

 

六根とはむろん仏教語で、我々は世界と接する6つの器官。『般若心経』にも出てくる眼・耳・鼻・舌・身・意を指す。それによって感知されるのが六境で、色・声・香・味・触・法である。なぜ六根は清浄でなければならないのか、というと、余計な迷いを生み出さないためだが、じつは仏教では、この六根やそれによって引き起こされる六識を本当のところ信じてはいない・・・だいたい感覚器から入ってくる情報は、脳によってまとめられる。見える景色はもちろん、声を香も味も触覚も、普段その対象をどう考えているかに左右されるのである。(13ページ)

 

仏教語の数々

 

娑婆:サンスクリットで大地を意味する「サハー」が仏教語の入り、我々がふだん暮らしている「この世」、俗世間という意味に変化した。(20ページ)

がたぴし(我他彼此):「我」によって「自他」の融合が妨げられ、「彼」と「此」とも無益に比較してしまうという人間存在への本質的な仏教的認識を、じつにうまく表現している。(44ページ)

台無し:台無しの台は、本来は仏像が置かれた台座のことだ。・・・仏像というのは、台座からおろしてしまうとやけに子供っぽく見えて迫力がなくなってしまうのである。(65ページ)

言葉の寿命

 

仏教経典が漢字によってサンスクリットの音を写し、それが日本に伝播した。多くの人に使われ、時間が経過することによって意味も変遷していく。結局言葉そのものには固有の意味は無いのである。言葉は人々によって使われる限り意味が発生するのである。砂糖はサンスクリットのシャルカラ、あるいはバーリ語のサッカラーの音写語に、甘いという意味の「糖」が加わってできた。そしてその砂糖は仏教と一緒に日本に伝来した。言葉の寿命はとてつもなく長い。

蛇足

 

仏教伝来538年

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