毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

自分が船長だったとて、船が沈没する事が想像できるか、それが「ほんの少しの差」~『洞爺丸はなぜ沈んだか』上前 潤一郎(1980)

洞爺丸はなぜ沈んだか (文春文庫 (248‐4))

上前 淳一郎はノンフィクション作家、1954年に沈没した洞爺丸を題材に25年に渡る取材を経て、1980年に刊行。

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洞爺丸は16:39出航

 

近藤船長は18時30分出港と決定、洞爺丸は18時39分函館第1岸壁を離岸した、しかし港口通過直前から、40mもの強風を受けはじめたため、前途の航行は困難と考え、19時01分函館港防波堤外に錨泊。22時過ぎ、錨鎖が切れエンジン停止により、七里浜への座礁を試みるが海岸手前で座礁、沈没する。

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沈没の原因分析はこちらに詳しい洞爺丸海難 - 西野神社 社務日誌

海底の漂砂につかまってしまった

 

七里浜から800メートルの沖は、海図には水深11メートルと記されている。洞爺丸の吃水からすれば、そんな深いところに座礁するのはおかしい。・・・洞爺丸が乗り上げたのは、実は、うねりにすくい上げられて沖から波と一緒に運ばれてきた、海底の漂砂だった。砂は、七里浜の沖800メートルの地点で短時間のうちに数メートル堆積し、11メートルあるはずの水深を5,6メートルにかえていたのである。(196ページ)

洞爺丸はなぜ沈んだか?

 

一つは運悪く風浪で海底に堆積した砂につかまってしまったこと。また錨鎖が切断し、そのはずみで積んでいた貨車が横転したこと。そしてなによりも、(浅瀬への乗り上げに成功し沈没しなかった)第六真盛丸のエンジンは最後まで生きていたのに、洞爺丸のそれは車両甲板からの浸水で早いうちに止まってしまっていたことだ。(221ページ)

 

青森側で出航しなかった羊蹄丸

 

(青森側で出航を見合わせた羊蹄丸は)船をじっととめおくことで、台風との知恵くらべに勝っていた。もし午後4時半の定刻以降、昨日のうちに出港していたら、津軽海峡か函館湾かで洞爺丸と同じように沈み、もう1300人が海に呑まれ、彼(羊蹄丸の佐藤船長)の生命もなかっただろう。(236ページ)

洞爺丸と羊蹄丸はほんの少しの差

 

 洞爺丸の近藤船長も、自分の船が沈むことは考えてみることもできなかった。だから、できる思考の範囲内で出航を決意したのだ。青森に留まっていた自分(佐藤船長)の場合はどうだろう。自分も、出て行けば沈むとは考えてみることもできなかった。必ず起きたであろう結果を予見できなかった点で、自分もまた神ではない。

 

近藤船長は海と気象についての知識と経験を、ほんの少しだけ自分よりも多く持っていた。そしてそのことが、海と気象に対するほんの少しだけ大きな自信を、近藤船長に持たせた。そのほんの少し、は多くの場合は決定的なプラスになって表面化する。・・・しかし今度だけはその、ほんの少し、が致命的なマイナスになった。(237ページ)

ほんの少しの差が大切

 

プロフェッショナルは「ほんの少し」の違いを目指して日夜努力をしている。ほとんど全ての場合「ほんの少しの違い」がプラスに働く。洞爺丸の近藤船長はベテランであるが故に一瞬の青空を台風の目と考え天候は回復すると考えた。出航の時に気圧が下がり続ける事に気づきながら決断した。そして出航してわずか30分、航行を断念している。

強みが弱みに代わってしまった瞬間である。それは「ほんの少しの違い」がマイナスなのではない。それは我々の世界が完全性の否定された世界である証である。

蛇足

 

自分の船がどうやって沈むか想像をしてみる。想像できるなら、回避する方法は見つかる。

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