毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

どうして日本語は英語とも中国語とも文法が違うのか?~『日本語の源流を求めて』大野 晋(2007)

日本語の源流を求めて (岩波新書)

大野晋(1919ー2008)、国語学者、日本語は、いつ頃どのように生まれたのか?古典語との格闘から日本語の源流へと探究を重ねた。2007年刊

 

f:id:kocho-3:20150211074053p:plain

日本語と中国語は同系列ではない

  

 

日本語と中国語とを比較すると、単語については「対応」といえるようなものがたくさんある。しかし文法を比較すると、全く違う。例えば中国語で「読書」と言えば、日本語にも「読書」という単語はある。しかしこれをセンテンスとして読むと、日本語では「書を読む」となって語順も違えば、助詞の挿入、動詞の活用などまったく相違する。(32ページ)

 

 

ヤマトコトバはBC10世紀頃

 

 

タミル語が北九州に到来するまで、日本語とタミル語は何の関係もなかった。・・・北九州の縄文人は、タミルから到来した水田稲作・鉄・機織の三大文明に直面し、それを受け入れると共に、タミル語の単語と文法を学びとっていった。その結果、タミル語と対応する単語を多く含むヤンマトコトバが生じたのである。(36ページ)

 

タミルの人々はどうやって日本に来たか?

 

 

タミルの文明は陸路を経て日本に到来したのではなく、海路によって日本に来たと想像する。・・・(陸路を経由したのでは異言語の影響を受けるので)同一に語形をして意味もも同一という単語が多数見出されることはあり得ない。(212ページ)

 

 
タミルの人々は真珠を求めて来た

 

 

 

真珠はこのように日本の古代に多く産出され、インド、中東、ギリシアの地で珍重され、帝王の冠の中心には巨大な真珠が嵌め込まれるものだった。南インドのタミルは日本とギリシア、ローマとの海上貿易の中間点に存在し、タミル人は海運に熟達していた。・・・タミル人が貴重な真珠を求めて、アジア大陸の東端の島国である日本まで海を越えて来たことは、あり得るのではなかろうか。(217ページ)

 

1979年ドラヴィダ語の辞典から始まる

 

大野氏は1979年タミル語の一種、ドラヴィダ語の辞典を手に入れた事から日本語とインド南方やスリランカで用いられているタミル語との共通点を見出す。その時大野氏は60歳、既に日本語辞書の編纂、日本の古典研究で確かな業績を残した後であった。

日本語には3回の波があった

 

 

日本語は外国から3回の波、タミル語、中国語、英語の波を受けているという。川端康成の雪国を引用する。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」国境は中国語、トンネルは英語、「の」という助詞などの文章の構造はタミル語からの影響であると説明する。異文明のインパクトは言語に大きな影響を与えた。日本は世界からの影響を大きく受ける時期とそれが内で熟成していく時期とがあった事になる。

大野氏の言いたかった事

 

大野氏は冒頭「日本とは何かという問が私の心にしっかりと根をおろしたのは、私が高校に入った年、昭和13年(1938年)・・・日本は世界戦争へんと突き進んでいた・・・何かにつけて「日本精神」という言葉が使われていた。」(2ページ)と書く。大野氏は「我々は唯我独尊になってはいけないし、英語圏の、又は中国語圏の亜流であると卑下してもいけない、」、と主張したかったと考える。本書を執筆した時大野氏は86歳、亡くなる1年前の事であった。

蛇足

 

日本語は中国語とも英語とも文法が違う

こちらもどうぞ

 

 

漢字は1字で深い情報量を持つ、「逢い引き」はあるが「遇い引き」はない - 毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

 

こちらもどうぞ