わずか5世代前、160年前の江戸にはタンチョウ鶴がいた~江戸川の歴史
利根川東遷 利根川の付け替えにかかわる一連の河川改修
狭義には1594年~1654年に行われた会の川の締め切り工事から赤堀川通水までをいう。
江戸以前 利根川東遷後
(Wiki)
本質を見抜く力―環境・食料・エネルギー (PHP新書 546)
養老氏と竹村氏の対談。
家康が江戸川東遷を行った経緯
(竹村)河口を銚子に持っていくことで大洪水を向うに導くようにしたというのが一点。東北とは陸続きだから、仙台の伊達藩の進入を防止するために関東に入る地点を削り、利根川を流すことで東北から江戸を向かうルートを遮断したというのが一点。さらに船上交通に利便性を上げる目的もあった。(中略)銚子は岩盤で、いわゆる三角州ではない。徳川家康が最初に江戸に入ったのは1590年のことですが、彼は年中鷹狩りに出かけています。これは野外調査だったのです。そうやって、栗橋の地を切り裂いて利根川を銚子まで持っていく計画を立案した。利根川を銚子の方に持っていくことで大湿地だった関東平野が乾いてきて、日本一の穀倉地帯になってくる。十九世紀末、欧米列国に囲まれた日本が植民地にならなかった多くの理由のうち一つは、日本中の英知と力を集中させて関東平野はあったからなのです。
(養老)更級日記がちらっと触れています。あれは上総の国司だったお父さんの菅原孝標が都に帰るところから始まるのですが、その中に、背より高い、葦が繁って遠くが見えないという記述がある。おそらく大変な湿地だったと思う。家康の代になってその関東が変わった。
(竹村)広重の名所江戸百景の三河島から日暮里を描いた絵に、タンチョウズルが二羽描かれています。タンチョウズルが生息していたという事はべらぼうな湿地帯だったのです。(125-126ページから再構成)
タンチョウズルと『名所江戸百景』
第102景 蓑輪金杉三河しま : 広重 Hiroshige 「名所江戸百景」 時空map
江戸名所百景は、浮世絵師の歌川広重が1856~1858年に制作した連作。現在の荒川区三河島から日暮里周辺。将軍家の恒例行事「鶴御成り」と呼ばれる鷹狩があり、三河島一帯は、実際に丹頂鶴の飛来地であった。
蛇足
ライバルという言葉の由来はリバーが語源、川の水資源で競合する者同士という事。