毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

どうして西欧音楽に「トルコ」行進曲があるのか?~オスマン朝の西欧社会への置き土産

 

トルコ行進曲モーツアルトとベートーベンの曲がよく知られている。当時の西欧異国ブームと説明されるがどうしてヨーロッパでトルコ行進曲なのであろうか?

 

オスマンVS.ヨーロッパ (講談社選書メチエ (237))  新井氏はトルコ史の研究家。

 

(トルコ行進曲を一言で言えば)オスマン朝の軍楽が、強者への恐れ、憎悪、その一方での怖いもの見たさ、さらには異国趣味・・・さまざまな思いと一緒くたに、西欧世界に影響をおよぼしていたらしいのである。(6ページ)

 

オスマン朝1453-1922

西方に拡大し、世界帝国を目指すオスマン。宗教的寛容性と強力な中央集権体制を持つこの「先進国」の驚異こそがヨーロッパの近代化を促した。オスマン朝は400年にわたりヨーロッパを震撼させ続けた。(本書表紙より)

1453年「ローマの首都」に入場したメフィット二世は、自らをオスマン朝の君主であると同時に、復興されるべきローマの帝国とも意識するようになった。オスマン朝とその君主とが、地中海世界の王者を自覚する時ががってきたのである。(95ページ)

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オスマン帝国の最大領土(1683年)オスマン帝国 - Wikipedia

 

トルコの語源

アナトリアへの移住以前、中央アジアで暮らしていたトルコ人が、モンゴル高原を中心とする遊牧帝国、突厥を築いたAC6ころにはすでに使われていた民族名。(Wiki)

多民族国家であったオスマン帝国の時代、オスマンにとってトルコという概念は大きな意味を持たなかった。一方西欧社会においてはオスマン=トルコ~アナトリア半島の人々~であり、恐怖の対象であった。1526年にオスマン朝はウィーンを包囲し後一歩で陥落させるまで西欧社会を追い詰める。1683年逆にウィーンでオスマン朝が軍事的に敗北し西欧社会が軍事的優位を取り戻すまでトルコは軍事的驚異の同義語であった。

 

モーツアルトの時代、「トルコ」の持つ意味~異国情緒へ

ヨーロッパでは各地でコーヒーハウスが繁盛し、東方起源のこの不思議な飲み物がもてはやされる。またタイルや絨毯、ソファーなどのいわゆる「トルコ趣味」が流行していく事になる。(16ページ)

モーツアルト、そしてベートーベンが「トルコ」を使った意味=「オスマン朝の置き土産、西欧の嗜好品」という記号性が理解できる。