毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

1970年大阪万博に学ぶ、”偉くない人”がビッグ・プロジェクトを成功させる方法~『歴史の使い方 』堺屋太一氏(2010)

歴史の使い方 (日経ビジネス人文庫 グリーン さ 3-6)

  堺屋氏は評論家、よく知られている歴史上の場面を引き合いに出して、歴史の「使い方」を語る。(単行2004、文庫2010)

偉くない人が企てる

日本は、地位が高くもなければ大金持ちでもない人、いわば「偉くない人」が大事業を企て実現することのできる国だ。東海道新幹線も、愛知用水も、日本万国博覧会も、プロ・サッカーのJリーグも、札幌ソーラン祭りや神戸ルミナリエも、成功したプロジェクトの大半は「偉くない人」が企画し実現したものである。

 日本には比較的地位の低い人々の意見を吸い上げる「ボトムアップ」の伝統がある。(124ページ)

ボトムアップ関ケ原に始まる

関ケ原の合戦に至る天下分け目の大戦争である。1598年旧暦8月18日、太閤・豊臣秀吉が死去し、権力中枢に虚団な空白ができた。それを狙ったのは秀吉に次ぐ実力者、徳川家康である。・・・そんな中で石田三成は、ほとんど独力で「徳川家康の天下簒奪を阻止しよう」という「大いなる企て」を試みた。ときに石田三成、数えで39歳、領土は19万5千石、地位は奉行。決して「偉い」といえるほどではなかった。・・・254万石の大領を持つ五大老筆頭になった実力副社長の徳川家康に、20万石にも満たない企画部長級の石田三成がどのようにして挑むのか、・・・石田三成はさまざまな策を練った。(131ページ)

プロジェクト・メーキングの方法

第一は「大義名分」を掲げることである。人は大儀では動かない。人を動かすのは、利害と恐怖である。それなのに人は、この世の中には「大義のある方に加担する者が多い」と考えるロマンだけは持っている。だから、大義のある側は過大評価されるのだ。非力な者が大敵を倒すには、まずは「大義」を掲げる必要がある。(138ページ)

プロジェクト・メーキングの手順は、まずコンセプト(概念)を決める。次に大義名分を掲げる、そしてプロジェクトのスポンサーを探し、最後には世間が成功を信じるような慎重にして格式ある人物を総大将に担ぎ上げる。その3つの条件を揃えることだ。石田三成は、労を厭わずこの手順を見事に踏んだ。自分のコンセプトに自信と誇りがあったからであろう。(141ページ)

日本万国博の仕掛

私は1963年、28歳のときに「日本万国博覧会を開催する」という志を立てた。そして、その手法を「関ケ原」に至る石田三成に倣うことにした。

まず、大義名分を立てた。万国博覧会は日本の経済成長と国際化に極めて有効な事業であり、開催地の地域開発にも役立つ。それにおそらく黒字を出して財政にも貢献するだろう。この大義名分は多くの共感を呼んだ。(159ページ)

 

歴史の使い方~歴史を「企てる」

1970年の大阪万博は高度成長期の日本を彩るイベントとして東京オリンピックと同様人々の記憶に残っている。東京オリンピックの参加者は200万人、万博は何と6400万人参加していた。多くの人の記憶に残るはずである。

堺屋氏は発案当時若干28歳、経済産業省の課長補佐、「偉くない人」であった。このビック・プロジェクトを進めるのに参考にしたのが石田三成、徳川との関ケ原の合戦というプロジェクトをプロデュースした。石田三成の大義は、成長路線の堅持であった。徳川の時代になれば今までの成長志向の政策から封建的な政策へとシフトする。それではいけないという大義を掲げた。大義を掲げればプロジェクトが動き出す訳ではなく、その後も石田三成は一つひとつステップを踏んでいった。

堺屋氏が万博のキーマンだったことは良く知られている。万博を進めるに当たって石田三成に倣ったというのは本書で始めて知った。万博が1970年、本書執筆が2004年、30年以上の時を経て明かされた秘密である。

蛇足

人は大義と損得で動く

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