毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

20年間"トライアスロン"を行った男~歩いて、計測して、移動して、伊能忠敬

伊能忠敬1715-1818江戸時代の商人、測量家。

 

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四千万歩の男 忠敬の生き方 (講談社文庫)   井上ひさし氏は作家、2010年没。「17年をかけて日本全土の実測を行い、「伊能図」と呼ばれる精密な日本地図を作成した幕末の測量家、伊能忠敬。本書は、その忠敬の人生を描いた原稿用紙5000枚にも及ぶ著者の長編小説『四千万歩の男』のエッセンスを、対談、講演録、エッセイなどをもとに凝縮」

 

人生の前半

伊能忠敬は千葉の佐原の伊能家に養子として入る。佐原の伊能家は新田開発を熱心に行っていた家柄で、忠徳が養子に入った時の資産が3億円、隠居する時には70億円と商売で成功し、50歳を過ぎ、家督を息子に譲った。現代的に言えば、新田開発の為の投資、米の売買、相場など資本家的な事業家であったと推測。

人生の後半~星学、そして測量にかける。

医学と数学、あるいは当時星学と呼ばれていた、天文学、特に暦学の分野では素人からどんどんよい学者がでていたい時代でもあります。江戸時代、とにかく八百年使っていた暦はまったく使い物になりました。そこで吉宗が洋書を解禁します。外国を学ぼうということではなく、暦をちゃんと創りたいので西洋の学問をとりいれようという事でした。暦学で言えば日食・月食を言い当てる事ができるようになれば、一流の学者としてン認められるのですから一生懸命勉強しました。忠敬もその中の一人だったと思います。(75ページ)

蝦夷へ測量に出発、1800年56歳の時

忠敬の師匠であった西洋天文学の第一人者であった高橋至時は幕府に、ここに一人非常に優秀でしかも金持ちの人がいる、幕府から費用は頂きません、自費で蝦夷地を測量しますので、どうぞ自分の弟子の伊能忠敬というものを蝦夷にやって下さいと願いを出します。幕府としては今をときめく天文学者が推すわけですから許さないはずがありまさせん。(90ページ)

 

幕府の視点からは蝦夷地の測量は西欧列強にアジア進出の中で防衛上の観点から必要ものであった。一方師の高橋至時、そして伊能忠敬には別の狙いがあった。  

測量のもう一つの目的:緯度の実測

その測量とは北極星の高さが一度たかくなったとき、人間は地面の上を何里あるいているかという問題なんです。北極星は北にいけばいくほど高く見える。(中略)ずっと真北に歩いていったときにこの北極星の高さがいつ一度上がるか。忠敬が出した距離は本当に正確な数字でした。たしか、28里32分という数字がでいます。これで地球の大きさがだんだんわかってくる訳です。(94ページから再構成)

 

この正確性を担保したのは正確に記録を採るという精神と、同じ歩幅で歩くという身体性の追求の2点が挙げられる。「同じ歩幅で歩く事」の持つ洞察は大きい。(第一回の測量以降は歩幅のカウントは採用していない)

伊能忠敬の功績 

忠敬の作った地図は1821年幕府に上程されるが、幕末に日本で測量を行おうとしたイギリス人技術者達により再発見されるまで死蔵されてしまう。井上氏は伊能氏の業績を「伊能忠敬はそういう形而上的なものでないて、日本国の測量という仕事によって形而下的に実質的に超えてしまった」(211ページ)と評価する。

日本一周四千万歩、自分の足で歩いて地図を作った。忠敬による測量の特徴的な点は、従来の測量方式に加え天体観測を初めて併用した事。(Wiki)忠敬の企業家らしい工夫であり、一つ一つは発明でも発見でもない。日々の、そして「一歩一歩」正確性を追求する精神、それが世代を超えて評価される成果を残した。

蛇足

毎日の規則正しい歩行、測量の作業、そして移動、20年間トライアスロンを続けた様なもの。一番楽しんだのは本人。