毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

漆黒という言葉が表現したもの、美であり、富であり、権力であり、~ハプスブルグ帝国に見る。

  漆とジャパン―美の謎を追う

三田村氏は赤塚派蒔絵十代目。「日本の漆芸は、海を渡りアジア、ヨーロッパへと伝わり人々を魅了してきた。世界の芸術に大きな影響を与えた漆の魅力を大胆に解き明かす一冊。」

 漆とジャパン、本書のタイトルの意味

日本の漆関係の本や文献では、磁器をチャイナというように、日本の漆器は西洋では英語の小文字"japan"が代名詞とされていると述べている。また日本の「漆はjapanと呼ばれるほど欧米でもてはやされている」と書いてある事が多い。(中略)ヨーロッパ各地において日本の漆器(蒔絵)が大きな反響で迎えられたことは事実であるが、ジャパンという克明を使ってもてはやしたというのは、一時期だけのことであると思う。(158ページ)

筆者はそもそものJapanの語源にも言及し、語源は中国華南地区、広東語の「日本」の発音、ヤーパンやヤープンに由来すると説明する。 

どうして日本の漆器がもてはやされたか?

日本では縄文時代から漆に煤を入れて塗り、宝石のように輝く黒色の質感を日常の中に手に入れていた。その頃、遠くエジプトでは黒いコールタールを使っていた。漆のような天然樹脂塗料がないヨーロッパの人々にとっては、光輝く色は永遠の憧れであった。

紅毛漆器は、長崎出島を通じ、オランダ経由でヨーロッパに運ばれたものをいう。オランダ人のことを紅毛人と読んだのである。船員が売ることを目的に私商品として持ち込んだ脇荷物としての方が多く運ばれた。積荷がつくとヨーロッパの王侯貴族が、港に集まり法外な値段で購入し、自分達の宮廷を飾った。

 

 

シェーンブルン宮殿の漆の間~マリアテレジ

シェーンブルン宮殿は1696年レオポルト1世が狩猟用の別荘として建設して以降、歴代皇帝が増築し、1749年マリア・テレジアの時代になってようやく完成を見たバロック様式(後ロココ様式が追加)の傑作。

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マリアテレジは漆の収集家としても名高い。宮殿の一室に漆の部屋を作り、そこで各国の宰相と懇談した。花鳥風月、中国式風景が描かれたヨーロッパラックで飾られた金と黒の部屋は、肖像画を真ん中に設え、その異国情緒豊かで絢爛豪華なしつらえは、瞬く間にヨーロッパの王侯貴族が真似るところとなった。オーストリア帝国はヨーロッパの様々な国に娘を嫁がせ、そこから入る海外の様子を集めていたに違いないのだが、とにかく日本製蒔絵の大信奉者であった。「私にとって世の中のすべて。ダイヤモンドさえ、どうでもいい。ただ二つの漆とタペストリーだけあれば満足です」とテレジは手紙にしたためている。(149ページ)

漆の間から考える事

マリアテレジはこの部屋を夫の死後喪に服する意味からも使う事が多かった。ヨーロッパでは漆器がどうやってできるか長い間謎、ラッカー塗装がなかった当時、漆黒・金箔のインパクトは絶大だった。、艶やかな黒で装飾された部屋はハプスブルグ帝国の威光、権力、富のすべてを、そしてマリアテレジにとっては家族の栄光を表現していた。マリアテレジは娘、マリーアントワネットにも漆器のコレクションを遺した。

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マリアテレジが残した漆器のコレクションを保管する為マリーアントワネットが創らせた机~ニューヨークメトロポリタン美術館

蛇足

漆黒という言葉が「表現したもの」、それは今も皆が求めるもの。