毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

なぜ自然科学は西洋社会で発展したか?

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

橋爪氏と大澤氏は社会学者。まえがきで大澤氏は「新たに社会を選択したり、新たな制度を構想すべくクリエイティブに対応するためには、どうしたって近代社会の元の元にあるキリスト教を理解しておかなければならない。」と記す。あとがきで橋爪氏は「『信仰の立場』を尊重しつつも、自由にそこから出たり入ったりする、「社会学的な」論議をくりひろげた。(中略)この本が、日本に生きる人々がキリスト教とよりよい関係をつくっていく一助になれば、これにまさる幸いはない。」と記す。

一神教と宗教法

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、いずれも同じ神を信仰する一神教、キリスト教は宗教法を持たない。「ユダヤ教やイスラム法は、神の法がはっきり中に書いているのでそれを詠めばよく、聖書の外に、わざわざ自然法を発見するという発想がありません。」(282ページ)

キリスト教では「自然法は、神の法のうち、人間の理性によって発見できる部分です。立法者は神で、人間はそれを発見するだけ。理性は、人間の精神能力のうち神と同等である部分、具体的には、数学・論理学のことなんです。」

自然科学の誕生~科学は宗教の副産物

自然科学がなぜ、キリスト教、とくにプロテスタントの間から出てきたか。(中略)人間の理性に対する信頼が生まれたから。そして、もう一つ大事なことは、世界を神が 創造したと固く信じたから。この二つが、自然科学の車の両輪になります。世界を神が創造し、物理現象も化学現象も生物現象も、神がつくったそのままのネイチャーであるならばそこに神はもういないんです。世界を神が作ったという痕跡があるだけ。」(314ページ)

「神が創造したこの世界(宇宙)は、神ではないから、人間の理性で残らず解明できるとも言える。宇宙に理性を適用したら、神の意図や設計図が解読できないか。これも信仰に生きる道である。(中略)アリストテレスはたしかに理性を使って、自然はこうなっていると書いたけれども、それは神の設計図どおりである証拠がない。それを、自分の理性を使って確かめてみましょう。」(282ページ)

 一神教では神は世界を創造した後出て行った。ユダヤ教とイスラム教には宗教法を置いていったが、キリスト教では自分の理性が拠り所になり科学を発展させた、と整理されている。

なぜ進化生物学者ドーキンズは「利己的な遺伝子」を書いたか?

「ドーキンズは、自分は無神論者で、キリスト教等のいかなる宗教も信じていない、と言っています。確かに意識のレベルではそうです。しかしドーキンズの本を読むとーそれはとてもよい本なのですがー、その内容は聖書とは矛盾していても、あの様な本を書こうとする態度や情熱は、むしろ宗教的だ、と思わざるを得ません。創造説を何としても批判しなくてはならないというあの強烈な使命感、そして創造説か進化論なのかということに関連した、一貫性への非常な愛着。こうしたものが、宗教的でなくてなんだろうか、と思うのです。

 

蛇足

ドーキンス神は妄想である―宗教との決別 (日本語版2007年)を出版。