毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

ユーロの始まりは1989年?~『過剰な資本の末路と、大転換の未来: なぜ歴史は「矛盾」を重ねるのか』水野和夫氏(2016)

過剰な資本の末路と、大転換の未来: なぜ歴史は「矛盾」を重ねるのか

 水野氏はマクロ・アナリスト出身、エネルギーや利子率の問題を世界史的視座で語る。(2016)

 

 プラザ合意

1981年にレーガンが大統領に就任したわけですが、ここままではドルが急落するのではないかと言われるようになりました。84年前後のことです。それで慌ててやったのが、「1985年のプラザ合意」。本来、ドルを強くしたいならアメリカが利上げすればいいのですが、それでは国内景気が悪くなってしまう。それが嫌なので、利上げはしたくない。税制赤字も本来なら増税すれば解消できるのですが、レーガン大統領は減税を公約に大統領になったためにできない。そこで85年9月に招集して、日本とドイツに内需拡大しろと迫った。「プラザ合意」によってそれまで1ドル240円だった円が急騰します。予定では180円程度にソフトランディングさせるはずだったのに、一気に120円まで円高になりました。日本とドイツが内需拡大すれば、アメリカの輸出が増える為に、赤字が改善するだろうと考えたわわけです。(202ページ)

ドイツは利上げを実施

ドイツも内需拡大のために利下げをしましたが、インフレ懸念が生じたため、同じ87年9月に利上げをした。アメリカは、利上げなどするなと圧力をかけましたが、(日本が再度利下げをしたのと)同じ87年9月に利上げをしました。・・・おそらくこのときの判断がその後のドイツの運命を変えた分岐点と言えます。ドイツも日本同様超低金利政策を続けていたら、バブルになっていた可能性が高い。当然、その後はバブル崩壊で国内経済の立て直しで苦労したでしょうから、東ドイツを併合したり、ユーロを作ったりというときも、主導権を握れなかったでしょう。(206ページ)

バブル崩壊

バブル化した経済を懸念した日銀は、89年12月に利上げを決定、そのことを政府へ事前報告したもの、当時の橋本龍太郎大蔵大臣に拒否されて、白紙撤回させられます。90年代になってから当時の経済企画庁関係者が言っていましたが、「内需拡大はアメリカからの要望であり、政府としても最上位の国策と掲げていただけに、インフレ抑制などあり得なかった」ようですが、結果として(90年1月からの)バブル崩壊になるわけです。(206ページ)

日本とドイツの分岐点

ドイツは1990年10月に東ドイツ併合を決断する。日本のバブル崩壊からわずか10か月であった。更に、東西ドイツ併合から3か月後の1992年2月マースリヒト条約が調印され、統一通貨ユーロが誕生する。これが今日のユーロに至ることになるが、ドイツはこの時点でアメリカの覇権に入らないことを決定した。

一方日本はバブル崩壊を経て、アメリカと経済的一体化に突き進むことになる。今までプラザ合意がバブル発生の発端であると言われていた。水野氏は「日本も87年にドイツとともに利上げをしていれば、バブルがあそこまで膨らむことはないし、失われた20年もひょっとしたらなかったかもしれない」(210ページ)と指摘する。

我々が知るべきは1989年に日本とドイツが大きな分岐点を通過していたということ。日本が別の選択をしていたら、という想像は意味がない。誰かの陰謀だ、と指摘することも意味がない。我々の住む世界は1989年の延長線上にある。未来は過去の選択に大きな影響を受けるが、これからの選択にもっと大きな影響を受ける。

蛇足

ユーロとは政治的には一つのヨーロッパ

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