毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

徳川幕府はいつアメリカの独立を知ったか?~『オランダ風説書―「鎖国」日本に語られた「世界」』松方冬子氏(2010)

オランダ風説書―「鎖国」日本に語られた「世界」 (中公新書)

 松方氏は日本近代史の研究家、日本人の海外渡航を禁じた江戸幕府にとって、オランダ風説書は最新の世界情勢を知るほぼ唯一の情報源だった。幕府はキリスト教禁令徹底のため、後には迫り来る「西洋近代」に立ち向かうために情報を求め、オランダ人は貿易上の競争相手を蹴落すためにそれに応えた。(2010)

 

鎖国体制が恐れたもの

幕府が危険視したのは、ヨーロッパの思想(キリスト教)や軍事力である。・・・とりわけ17世紀に恐れていたのは、ポルトガルやスペインといったカトリック勢力による布教、貿易、領土の獲得を一体とした対外進出の動きである。しかし18世紀後半から19世紀前半にかけて、恐れの対象はヨーロッパ諸国が起こしつつあるよくわからない何かに変化していく。通商を求めているようだが領土欲があるのかもしれない、どのほんとうにそれだけか、というような。それを植民地化の危機と呼ぶのはたやすい。しかし本書では、あえて少々落ち着きの悪い「西洋近代」という言葉でその「よくわからない何か」を呼んでおく。・・・それがインドや東南アジアの社会を大きく変えているとしたら、そして中国にも影響があるのなら、危機はやがて日本にも訪れるだろう。幕府は大きく軸足を動かして、カトリック勢力ではなく「西洋近代」から自分たちの体制を守ろうとする。「鎖国政策」の「仮想敵」が変わったのである。(11ページ)

18世紀の日本

18世紀には、絶対に輸入が必要な薬種と書籍ぐらいだけになっていた。外国人に対する恐れや関心の低下は、自分たちの社会(それを「日本」として認識していたかどうかは別として9や経済、文化の自信や誇りの裏返しでもあった。(120ページ)

19世紀初頭

私が「西洋近代」と呼ぶものは、「産業革命と市民革命を経たヨーロッパ」ではない。・・・なぜか以前よりも頻繁に補給や通商を求めて日本の近海にやってくる、強力に武装した西洋帆船に象徴されるものである。(138ページ)

1840~1842年アヘン戦争の背景

中国で活躍するイギリス商人たちは、これ(イギリス東インド会社の中国貿易の独占終了)を機に貿易枠の拡大を望み、イギリス本国で木綿などの工業製品を生産する工場主たちの支持を受けた。(142ページ)

風説書から見えてくるオランダ

 

(19世紀の)当時のオランダ人には、イギリスやフランスが施条銃や電信などの新技術を次々と開発、実用化して、どんどん前進していく後ろ姿が見えたはずである。そしてそれを懸命に、いや着々と追う自分たちの姿を、イギリス人やフランス人より誠実で友好的な態度とともに、日本人に見せたかったのだ。(191ページ)

オランダ風説書

 

17世紀はオランダが覇権を維持、18世紀にはイギリスがオランダから覇権を奪い、19世紀は「西洋近代」が台頭した時代であった。徳川幕府は強力に武装した西洋帆船に代表される産業革命の成果である西洋の軍事力を認識していた。1840年アヘン戦争において、アジアで初めて蒸気船が投入される。貿易風に依存せずに航行できるようになったのである。

本書によれば徳川幕府がオランダ風説書によりアメリカ独立を知ったのは1809年であり、ペリー来航の44年前に当たる。松方氏は徳川幕府が「西洋近代」を知らず、ペリーの蒸気船に対応が出来なかったという説に異を唱える。たしかに18世紀オランダは対外情報の独占と貿易の独占を図った。19世紀以降オランダは「西洋近代」の動きを広範囲に伝え、幕府も「西洋近代」を認識していたと考えていい。

1840年代は蒸気船の登場によって西洋と東洋の距離が一気に縮まった時代であった。蒸気船が象徴する「西洋近代」の本質を知るにはオランダ風説書だけでは十分ではなかった。

蛇足

 

風説とは噂、という意味。

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