毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

信長はどうして本能寺に居たのか?~『京都ぎらい 』井上章一氏(2015)

京都ぎらい (朝日新書)

井上氏は文筆業、あなたが旅情を覚える古都のたたずまいに、じっと目を凝らせば…(2015) 

 

京都のお寺はホテルだった

織田信長が、部下の明智光秀に寝込みをおそわれ、うちはてたことはよく知られている。・・・信長は、本能寺を京都での常宿にしていた。自分の手で、いちどは京都屋敷ももうけたが、けっきょくそこを人手にわたしている。自前の館ではなく、寺院へ宿をうつしたわけだが、その背景は語られてこなかった。

信長や光秀の生きた時代に、今日的なホテルはない。かんたんな宿泊施設はあったが、武将たちをとめることは、できなかった。戦国時代の大名やそのとりまきは、だから寺をそのためにつかってきたのである。

寺に寝泊まりする武将たちのいたことがわかるのは、南北朝の争乱期あたりから。武人の宿泊に、寺が境内の施設を提供する話は、室町以後の記録によくみかける。京都の寺は今でいうホテル業をいとなみだしたようである。(122ページ)

なぜ寺に庭園があるのか?

武将らの接待という新しいつとめが、庭の美化をおしすすめたのだと思う。ホテルとしてのサーヴィス機能が、それだけ高まったということではなかったか。・・・庭で評判の高い京都の観光寺院には、室町時代まで由緒のさかのぼれるところが多い。そういう寺の多くは、武将をなごませるために、庭の形をあんばいしてきた。明日は殺戮へおよびかもしれない男たちが、ほんの一時でも、目を休められるように。

兵たちがすごしたそんな夢の跡を、現代人はおとずれている。今日の文明で疲れてしまった目に、うるおいをあたえたくて。かつて、人殺しに供された庭が、今はビジネス戦士たちの保養に転用されている。(125ページ)

精進料理

食事をととのえることも、当然客からは求められただろう。大名級の客には、食べておいしく、また見てたのしい食事も、要求されたにちがいない。

にも関わらず、寺は肉の料理ができないという不利な条件も、かかえていた。このハンディをひきうけつつ、そこを逆手にとって客あしらいにいかす妙案はないか。そんな模索のなかで、ひねりだされたものこそが、肉に似せる精進料理であったろう。一見、鱧のように見えるし、舌触りも鱧っぽいけれどお武家様、そうじゃありません。これは木綿豆腐とクワイを白昆布にのせてこしらえた料理です。・・・ホテルをいとなむ寺のレストラン部門によるアイデア商品だとは、みなせまいか。(128ページ)

京都ぎらい

洛中とは、北は北大路通から南は九条通まで、東は高野川・鴨川から、西は西大路通までの地域をいう。豊臣秀吉は、上京と下京を分かっていたそれぞれの構えを撤去し代わって「洛中惣構え」として御土居を構築した。東京で言えば千代田・中央・港の都心三区以外は東京ではない、というようなものであろうか。京都の人たちは洛中が京都の、そして日本の中心である、という中華思想があると井上氏は指摘する。

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井上氏は京都の寺の特異性を指摘する。宗教施設としてみた場合庭園の美しさにおいて世界でも類を見ない。それは戦国の時代、武将の宿泊施設として使われていたことに由来すると推測する。これで金閣寺銀閣寺が寺と名付けられる理由にも納得がいく。京都の地図を見ると金閣寺銀閣寺とも洛中の外に立地している。洛中の小ささを実感する。

蛇足

いつの時代も、権力者は美を愛でる

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