一杯の茶碗に破格の経済的価値を有むテクニック~堺に花開いた茶道に学ぶマーケティング
堺―海の都市文明 (PHP新書) 角山氏は経済誌の研究家。堺~「東洋のベニス」と呼ばれ、アジアとヨーロッパの接点として繁栄の頂点を極めた中世の「黄金の都」の歴史
本書では茶道の成立にも触れられる。
茶道は堺の富の蓄積が背景にあった
堺商人の蓄積した富はどこへ行ったかというと、数多くの仏教寺院の建造に寄進された。堺商人はその富を住宅建設に用い、当時としてはひときわ豪華な瓦葺き屋根の邸宅もみられた。しかし商人のぜいたくは権力者によって許されなかった。そこで「見せびらかしの消費」の対象になったのが、茶の湯、その茶碗、水指、香合、釜、茶壺、茶入、茶杓などの茶道具である。これらの茶道具は、イエズス会士の書簡や諸報告書にもみられたように、物凄く高い値段で取引されていた。それも金持ち連中の、いわゆる「みせびらかしの消費」の対象として、他に適当なものがなかったからである。
曜変天目茶碗
南宋時代(12-13世紀)、16世紀からみれば約3百年前に作られたもの3百年の時間、唐物という希少性、そして宋の漢詩に歌われた精神性、これらが莫大な価値(あえて今の価値に直せば「1億円」の価値)を生んだ。
堺の繁栄した150年という時代~15世紀半ばから16世紀半ば
1465年に兵庫を出帆した遣明船が、応仁・文明の乱が勃発したため、帰国に際し兵庫に帰港できなかった。それがやむを得ず、太平洋岸ルートの四国億を迂回して堺港に入港したのが1469年、それ以降急速に国際貿易港として発展したから、普通この年をもって堺繁栄の始期とされる。そして終期はいつかというと、大坂夏の陣で堺が戦火によって消失した1615年とするのが通説になっている。(中略)その150年のうち、1550年頃までの前半期の堺は遣明船貿易、琉球貿易を中心に東アジア貿易で栄えた。一方、後半期は、フランシスコ・ザビエルが堺へきた1550年以降、続々と来日した西洋からの宣教師を抑え、文字通り南蛮貿易で栄えた。それとともに、鉄砲の生産地でもあった堺は、戦国武将にとって、カネ、武器、内外の情報調達基地として、政治・経済・軍事戦略上重要な地位をしめていたのである。
Kochoの考えた事
茶の湯は利休によって完成され、その精神性の高さは現代の、そして日本以外にも認識されるだけのパワーを持っていた。その背景に遣明貿易、南蛮貿易による富の存在が不可欠であった。茶碗は経済的繁栄の上に成立した精神性を象徴している。
蛇足
茶碗に破格の経済的価値を生じさせる、見せびらかしの消費とブランドというマーケティング戦略。