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毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

資本主義システムと個人、一対一に対峙する必要は無い~"分人"(by平野啓一郎)は複数の事ができる

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)平野氏の小説「ドーン」の骨格である「分人」について語る。f:id:kocho-3:20140630080715p:plain

 

 個人という言葉

Individualは、in+dividualという構成で、divide(分ける)という動詞に由来するdiviidualに、否定の接頭語inがついた単語である。Individualの語源は、直訳するなら「不可分」、つまり(もうこれ以上)分けられない」という意味であり、それが今日の「個人」という意味になるのは、ようやく近代に入ってからのことだった。(3ページ)

個人という概念は西洋文化に独特のもの

一神教であるキリスト教の信仰である。「誰も、二人の主人に仕えることは出来ない」というのがイエスの教えだった。人間には、幾つもの顔があってはならない。常にただ一つの「本当の自分」で、一なる神を信仰しなかればならない。だからこそ、元々は「分けられない」という意味しかなかったindividualという言葉に、「個人」という意味が生じることとなる。

もう一つは、論理学である。椅子と机があるのを思い浮かべてもらいたい。それからは、それぞれ椅子と机とに分けられる。しかし机は机で、もうそれ以上は分けられず、椅子は椅子で分けられない。つまり、この分けられない最小単位こそが「個体」だというのが、分析好きな西洋人の基本的な考え方である。(64ページ)

平野氏は「分人」という概念を語る

たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返していうならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。

「分人(dividual)という新しい単位を導入する。否定の接頭語inを取ってしまい、人間を「分けられる」存在と見なすのである。(7ページ)

鴎外の「為事」を引用

私は森鴎外が大好きだが、彼は「仕事」を必ず「為事」と書く。「仕える仕事」ではなく、「為る事」と書くのである。私はこの発想を気に入っていた。人間は、一生の間に様々な事を為る」。寝て起きて、食事を摂って、本を読んだり、映画を見たり、デートをしたり為る」。職業というのは、何であれ、その色々な「為る事」の一つに過ぎない。(48ページ)

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Love others to love yourself: Keiichiro Hirano at TEDxKyoto 2012 - YouTube

 
キリスト教と同様、資本主義は個人を単位としていると考えてみる

資本主義を単位としての「個人」に終わりのない利益追求を競わせるものだとしよう。職業としての一つの会社と個人、もっと言えば地球を単一グローバリズムという視点で捉え、一対一の関係と考えると言い知れぬ閉塞感に囚われる。しかし資本主義もすべてを覆い尽くしている訳ではない。地球とて地域社会や文化など重層的な構造をしているし、宇宙には資本主義は届いていない。資本主義においては「個人」は職業としての仕事と個人との関係は通常1対1となる。資本主義の拡大している今日、よほど注意しないと「職業としての仕事」以外の視点を忘れてしまう。人間は多くの人との関係性の中に違った「分人」を当たり前に構築し得る。

森鴎外は軍医総監か小説家か? 

森鴎外は明治の軍医、そして小説家。軍医総監として脚気の原因を巡って多くの批判を浴びた。彼にとっては軍医総監という相応の地位がありつつも「為る事」の一つと位置づけ、小説家としての「分人」としても活きたという事。

蛇足

自分にとって「為る事」はいくつかるか数えてみる。