毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

日常生活に意識は要らない~『ハーモニー 』伊藤計劃(2010)

 ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

 本書はSFフィクション、21世紀後半、〈大災禍(ザ・メイルストロム)〉と呼ばれる世界的な混乱を経て、 人類は大規模な福祉厚生社会を築きあげていた。 医療分子の発達で病気がほぼ放逐され、 見せかけの優しさや倫理が横溢する“ユートピア"。(単行は2008、文庫は2010)

 

帯に「理想郷に倦んだ少女たちは、世界の終りを夢見た」。人間が理想郷に住む時、何を感じるのだろうか?本書では人間の報酬系を制御する脳の機能のモデルがストーリーを支えてる。(ストーリーは触れていませんが、“ネタバレ“注意)

人間の意志とは会議のようなもの

・・・人間は、この報酬系によって動機づけられる多種多様な欲求のモジュールが、競って選択されようと調整を行うことで最終的に下す決断を、『意志』と呼んでいるわけだ。・・・いろんな人間がアレやりたいコレやりたいとそれぞれの求めるものを主張し合い、煮詰めて調整し、結論を出す。人間が持ついろいろな『欲望のモジュール』てのが、その会議二参加して自分の意志を主張するひとりひとりだと思ってくれ。・・・そうやって侃々諤々の論争を繰り広げる全体、プロセス、つまり会議そのものを指すんだ。意志ってのは、ひとつのまとまった存在じゃなく、多くの欲求がわめいている状態なんだ。(170ページ)

もし参加する者の意見が一致していたら?

会議に参加する者の意見がすべて同じで、相互の役割が完璧に調整されていれば、会議を開く必要そのものがない。・・・完璧な調和を見せた状態とは、すなわち意識のない状態であるということが実験の結果わかった。・・・調和のとれた意志とは、すべては当然であるような行動の状態であり、行為の決断に際して要請される意志そのものが存在しない状態だと。完璧な人間という存在を追い求めたら、意識は不要になって消滅してしまった・・・(264ページ)

ハーモニー

全員の意見が一致する社会、完璧にハーモニーのとれた社会、そこには人同士の争いは存在しない。それではその時人は意識を持つと言えるのだろうか?

この極端な想定から日常生活の倦怠が浮びあがってくる。予定調和の比重の大きな社会であればあるほど意識を使う必要がない。日常生活は自動操縦できてしまうのである。意志を必要としない自動操縦できるが故に楽なのである。意識を必要としないことが悪い、のではないであろう。それでは永遠に意識を必要とする事態に直面しないでいいのであろうか?

完璧なハーモニーという極端な想定が、大きな問題に気付かされてくれる。

蛇足

人は自動操縦だけでは満足できない

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