毎日1冊、こちょ!の書評ブログ

2013年8月から毎日、「そうだったのか」という思いを綴ってきました。

世の中にはインパクトはあるが意味のない議論で溢れている~『ウンコな議論』H・G・フランクファート氏(2016)

ウンコな議論 (ちくま学芸文庫)

フランクファートは道徳哲学の研究家、ごまかし、でまかせ、いいのがれ。なぜ世の中、こんなものがみちるのか。道徳哲学の泰斗がその正体とカラクリを解く。(原書は2005、文庫化は2016)

哲学者ウィトゲンシュタインと女友達との会話

扁桃腺を摘出して、きわめて惨めな気分でイブリン療養所に入院しておりました。ウィトゲンシュタインが訪ねて参りましたので、わたしはこううめきました。「まるで車にひかれた犬みたいな気分だわ」。すると彼は露骨にいやな顔をしました。「きみは車にひかれた犬の気分なんか知らないだろ」(28ページ)

ウンコ論議の本質

(女友達は)真実を知っているとは主張しておらず、したがって偽であると想定するような発言を意図的に広めようとしているはずはないからである。彼女の発言は、それが真であるという信念にも基づかず、嘘であれば当然必然であるような真でないという信念にも基づいてはおらぬ。かような真実への配慮との関連欠如―物事の実態についてのこの無関心ぶり―こそまさに、吾輩がウンコ論議の本質と考えるものなのである。(37ページ)

著者フランクファートは道徳哲学の重鎮

最終的にどう生きるべきかを決めるのは何か?それは・・・何かを大事に思うという気持ちだ、とフランクファートは論じる。・・・何かを大切に思うなら、それを保存繁栄させるためには自分がどういう欲望を抱かなくてはならないかは自然に決まってきてしまう。つまり愛こそ、実用的な規範性の源泉があるのだ、とフランクファートは論じている。(訳者解説93ページ)

ウンコな論議

本書のタイトルのウンコは英語のbullshitを翻訳した結果である。このbullshitの直訳ウシの排泄物であるが、英和辞典で引くと慣用句として「でたらめ」の意味が出てくる。

ウンコな、つまり無駄な、論議が増えるのは知りもしないことについて発言せざるを得ぬ状況に陥った時である。更にフランクファートはその根本に「正確な表象を追求するかわりに、自分自身を正直に表現しようとする」(64ページ)からであり、自分自身についての事実はあまり確固たるものではない」(66ページ)と指摘をする。

フランクファートの道徳哲学の発想からいけば、無駄な論議は意味がない。一個人の自身についての事実を議論しても再現性が無い以上意味がない。それは何かを好きになるのに理由が無いのと同様である。自身についての事実をどうやって世界に拡張できるか、が重要になる。

我々の議論は、意味のない議論と意味のある議論が混在している。

蛇足

日本の似た表現、クソ・ミソ

こちらもどうぞ

 

kocho-3.hatenablog.com